光緒帝
清朝第11代皇帝[清]
(光緒34年10月21日没)
1908年 11月14日 死去
光緒帝(こうしょてい、こうちょてい)は、清の第11代皇帝(在位:1875年 - 1908年)。
諱は載湉(さいてん、湉はさんずいに恬)。
廟号は徳宗(とくそう)。
在世時の元号の光緒を取って光緒帝と呼ばれる。
生涯=
光緒帝の読書像
道光帝の第7子醇親王奕譞の第2子として生まれる(嫡子四人のうち、ただ一人成長した)。
母は西太后の妹である。
従兄の同治帝が早世した後に権力保持を狙う伯母の西太后によって擁立された。
即位したのは3歳の時であり、実権は西太后が握り垂簾聴政が行われた。
当初は東太后の教えより強い影響を受け(『翁同龢日記』)、伯父の恭親王奕訢も政権を担ったが、光緒7年(1881年)に東太后が急死(高官が不審視するもカルテ非公開)、光緒10年(1884年)に親政派の恭親王が開戦に反対していた越南(現ヴェトナム)での清仏戦争の敗戦の責任を西太后から転嫁され失脚させられると西太后が専権した。
同治帝の頃からあった清の衰退は光緒帝の治世でも続き、同治10年(1871年)の新疆で勃発したヤクブ・ベクの乱の最中に起こったロシアのイリ占拠、光緒元年(1875年)の日本による朝鮮の干渉(江華島事件)、光緒5年(1879年)の日本の琉球併合(琉球処分)、光緒11年(1885年)の清仏戦争によるベトナムへの影響力喪失などが挙げられる。
それでも恭親王と親密な李鴻章・左宗棠らによる洋務運動で清の技術発展が進められ、新疆は光緒3年(1877年)までに左宗棠に ……
光緒帝が亡くなってから、116年と11日が経過しました。(42380日)