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雍正帝

清朝第5代皇帝[清]

(雍正13年8月23日没)

1735年 10月8日 死去享年歳

雍正帝 - ウィキペディアより引用

雍正帝(ようせいてい)は、清の第5代皇帝。
諱は胤禛(いんしん(禛の字は示眞))、廟号は世宗、謚号は憲皇帝(temgetulehe hūwangdi)。
在世時の元号を取って雍正帝と呼ばれる。
生涯 即位 康熙帝の第4子として生まれる。
母は徳妃のウヤ(烏雅)氏(孝恭仁皇后)。
康熙帝は次男で皇后の子の胤礽を寵愛し、2歳で皇太子とした。
しかし、皇太子はその地位に安住し修養を怠って遊び歩くだけではなく、賄賂を取って政治を歪め、さらには康熙帝を亡きものにするクーデターにまで手を染めた。
そこで康熙帝はやむを得ず皇太子を廃太子とし、以後新たに皇太子を置くことはなかった。
康熙61年(1722年)、康熙帝が病を得て崩御すると、遺詔によって胤禛が指名され皇帝に即位した(九王奪嫡)。
この時45歳であった。
しかし、即位時の経緯には不明な点が多い。
康熙帝の遺詔は病床のそばにいたロンコド(孝懿仁皇后の弟)が聞いて、それを胤禛に伝えたということになっていたが、実は遺詔には「十四子」と書いてあったのをロンコドと胤禛が「十」を取ってねじ曲げたのだ、という噂が絶えなかった(「伝位十四子(皇帝の位を十四皇子に伝えること)」の「十」の字に加筆して「伝位于四子(皇帝の位を四皇子に伝えること)」に書き換えたともいう)。

中国の清朝第五代の皇帝。姓は愛新覚羅、名は胤?(いんしん)*1、諡は憲皇帝、廟号は世宗。 1678年生、1735年没。在位は1722年〜1735年。 康熙帝の第四子。即位をめぐっては、大臣隆科多(ロンコド)が本来「十四阿哥*2」と遺勅を受けたのを買収により捻じ曲げた、などの噂があった。雍正帝自身は、そのためか、太子密建*3を創始した。 内閣大学士張廷玉・顎爾泰・怡親王胤祥らを親任し、消極的だが堅実な政治を行った。 雍正七(1728)年に地方の財政に関して養廉銀の制*4を設けて、官吏を廉潔にさせ、地方官との間には親展状(奏摺 そうしゅう)をやりとりし、その親展状を詳しく点検して朱筆で批評して送り返すという硃*5批諭旨を行い、政治の末端まで把握した。 また、人頭税(丁銀)を土地税(地銀)に組み込んで地丁銀に一本化して政府収入を安定させ、各地の賤民を良民に編入して徴税対象とし、雲南・貴州地方の苗族地域を内地化する改土帰流を大規模に実施した。 外征・外交は消極的であったが、青海地方の反乱を年羹堯*6・岳鐘?らを用いておさえ、青海・チベット方面の支配を確立。 また、ジュンガル部のガルダン・ツェレンを攻撃する際に、臨時に設けた軍務決定機関の軍機処が次第に国内の最高政務機関へとなり、内閣にかわった。 雍正二(1723)年にキリスト教宣教師のマカオへの追放を行ったが、一方でカスティリオーネ(郎世寧)など朝廷に奉仕し続けさせた者もある。円明園離宮は、もともとは雍正帝が親王であった時代に康熙帝から拝領した庭園を発展させたものである。 雍正六(1727)年にはロシアとの間にキャフタ条約を締結し、国境を定 …… (引用元 Hatena Keyword)