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森有礼(もりありのり)

薩摩藩士政治家、子爵[日本]

1889年 2月12日 死去暗殺享年43歳

森有礼 - ウィキペディアより引用

森 有礼(もり ありのり、正字体:森有禮、弘化4年7月13日(1847年8月23日) - 明治22年(1889年)2月12日)は、日本の武士(薩摩藩士)、外交官、政治家。
初代文部大臣を務めた他、一橋大学を創設し、明六社会長、東京学士会院初代会員を務め、明治六大教育家に数えられる。
正二位子爵。
通称は助五郎、金之丞。
弘化4年(1847年)、薩摩国鹿児島城下春日小路町(現在の鹿児島県鹿児島市春日町)で薩摩藩士・森喜右衛門有恕の五男として生まれた。
兄に横山安武がいる。
安政7年(1860年)頃より造士館で漢学を学び、元治元年(1864年)頃より藩の洋学校である開成所に入学し、英学講義を受講する。
慶応元年(1865年)、五代友厚らとともにイギリスに密航、留学し(薩摩藩第一次英国留学生)、ロンドンで長州五傑と会う。
その後、ロシアを旅行し、さらにローレンス・オリファントの誘いでアメリカにも渡り、オリファントの信奉する新興宗教家トマス・レイク・ハリスの教団と生活をともにし、キリスト教に深い関心を示した。

もりありのり [生]弘化4(1847).7.13.鹿児島[没]1889.2.12.東京明治初期の外交官,教育家。子爵。幼名助五郎,金之丞。有礼は号。林子平の『海国兵談』を読んで,海外事情を知る必要を悟り,洋学,漢学を学び武術を修めた。薩摩の藩校に学び,慶応1(1865)年沢井鉄馬と変名してイギリスに留学,ロンドン大学に学んだ。ロシアで海軍技術を見学し,アメリカを経て帰朝し,明治1(68)年外国官権判事。議事体裁取調御用,公議所議長心得を経たが,官吏,軍人のほかは廃刀すべしと唱えて,武人の反感を買い免官となった。のち,小弁務使に任じられアメリカに駐在。『日本に於ての宗教の自由』ReligiousFreedominJapan(72),『日本の教育』EducationinJapan(73)などを著わした。外務大丞,同少輔,清国公使などを経て,イギリス公使となり,外交官として活躍。1873年明六社の創設を発起し,『明六雑誌』を発刊。開化論,泰西思想の普及に努めた。85年伊藤博文内閣で,初代文相となり,学制改革に貢献した。日本の戦前期の教育制度の骨格は彼のもとで公布された小学校令,中学校令,師範学校令,帝国大学令の4つの法律によりつくりあげられたとされている。性剛直であったため,宗教上の誤解を招き,大日本帝国憲法公布の日,壮士西野文太郎に暗殺された。著書に『妻妾論』,1972年には『森有礼全集』(3巻)が刊行された。 (引用元 コトバンク)