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後村上天皇(ごむらかみてんのう)

第97代天皇[日本]

(応安元年3月11日崩御)

(ユリウス暦) 1368年 3月29日 死去享年41歳

後村上天皇 - ウィキペディアより引用

後村上天皇(ごむらかみてんのう)は、南北朝時代の第97代天皇にして、南朝の第2代天皇(在位:延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日) - 正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日))。
諱は初め義良(のりよし / のりなが)、後に憲良に改めた。
名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の名の読みを参照。
父・後醍醐天皇の遺志を継いで南朝の京都回復を図り、大和(奈良県)の吉野・賀名生、摂津(大阪府)の住吉などを行宮とした。
明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として認定されるようになった。
系譜 後醍醐天皇の第七皇子。
母は、阿野公廉の女・廉子(新待賢門院)。
女御:源氏 - 北畠親房女 女御:藤原勝子?(嘉喜門院・三位局) - 実父不詳、二条師基猶子 第一皇子:寛成親王(長慶天皇、1343-1394) 第二皇子:熙成親王(後亀山天皇、1350?-1424) 生母不詳 第三皇子:惟成親王(?-1423) - 護聖院宮家、後亀山天皇皇太弟か 第四皇子:泰成親王(1360?-?) 第五皇子:師成親王(1361-?) 第六皇子:説成親王(懐成親王、?-?) 皇子?:良成親王(?-1395?) - 後征西将軍宮に比定される 皇女?:憲子内親王?(新宣陽門院、1345?-1391?) - 一説に後醍醐天皇皇女とする 皇女?:貞子内親王 - 南朝系図は後醍醐天皇皇女とする生母に関して、吹上本『帝王系図』の巻末付紙は、熙成親王(後亀山天皇)を阿野実為女の所生とし、近世成立の南朝系図は、憲子内親王を中宮北畠顕子の所生、泰成親王を藤原勝子の所生、惟成親王・師成親王を中原師治女(大蔵卿局)の所生、説成親王・良成親王を越智家栄女(冷泉局)の所生とするが、その確たる史料的裏付けはない。

ごむらかみてんのう [生]嘉暦3(1328).京都[没]正平23=応安1(1368).3.11.摂津,住吉第97代の天皇(在位1339~68)。南朝第2代の天皇。名は義良(のりなが)。後醍醐天皇の皇子。母は新待賢門院藤原廉子(阿野公廉の娘)。元弘3=正慶2(33)年北畠顕家と陸奥におもむき建武中興政府の東北鎮護にあたった。建武2(35)年足利尊氏追討のため上洛,再び顕家とともに東下,陸奥太守となった。延元2=建武4(37)年顕家と西上,各地に転戦した。延元4=暦応2(39)年後醍醐天皇のあとをうけ践祚,吉野を皇居としたが,正平3=貞和4(48)年高師直の攻撃で賀名生(あのう)に移った。正平7=文和1(52)年尊氏の帰順で一時入京したが,まもなく尊氏の叛により賀名生に帰り,その後摂津住吉に移った。京都を回復してもすぐ奪回されて京都に還幸することができず,苦難の多い悲劇的な生涯であった。御製の一部は『新葉和歌集』に収められている。陵墓は大阪府河内長野市の檜尾陵。 (引用元 コトバンク)