芸能人・経営者のおくやみ情報

後鳥羽天皇(ごとばてんのう)

第82代天皇[日本]

(延応元年2月22日崩御)

(ユリウス暦) 1239年 3月28日 死去享年60歳

後鳥羽天皇 - ウィキペディアより引用

後鳥羽天皇(ごとばてんのう、1180年8月6日〈治承4年7月14日〉- 1239年3月28日〈延応元年2月22日〉)は、日本の第82代天皇(在位:1183年9月8日〈寿永2年8月20日〉- 1198年2月18日〈建久9年1月11日〉)。
諱は尊成(たかひら・たかなり)。
高倉天皇の第四皇子。
母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。
後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。
文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。
鎌倉時代の1221年(承久3年)に、承久の乱で鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが敗北し隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。
経歴= 神器なき即位= 寿永2年(1183年)7月25日、木曾義仲の軍が京都に迫ると、平家は安徳天皇と神鏡剣璽を奉じて西国に逃れた。
尊成親王(後鳥羽天皇)の生母・坊門殖子(七条院)の継母は平清盛の娘であり、親王の乳母・藤原範子(刑部卿三位局)の夫である能円は清盛の妻・平時子の異父弟であるため、平家が尊成親王を西国に連れていく可能性があった。
事実かどうかは判断できないものの、『平家物語』にも能円が妻と親王を連れて落ちようとした際に範子の弟である藤原範光に阻止されて能円一人で落ちていく場面がある。
これに従わなかった後白河法皇と公卿の間では平家追討を行うべきか、それとも平和的な交渉によって天皇と神鏡剣璽を帰還させるかで意見が分かれた。
この過程で義仲や源頼朝への恩賞問題その他政務の停滞を解 ……

推定関連画像