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崇徳天皇(すとくてんのう)

第75代天皇[日本]

(長寛2年8月26日崩御)

(ユリウス暦) 1164年 9月14日 死去享年歳

崇徳天皇 - ウィキペディアより引用

崇徳天皇(すとくてんのう、元永2年5月28日(1119年7月7日) - 長寛2年8月26日(1164年9月14日))は日本の第75代天皇(在位保安4年2月19日(1123年3月18日) - 永治元年12月7日(1142年1月5日))。
退位後は新院、讃岐院とも呼ばれた。
諱を顕仁(あきひと)という。
鳥羽天皇の第一皇子。
母は中宮・藤原璋子(待賢門院)。
幼き帝 元永2年(1119年)5月28日に生まれ、6月19日に親王宣下を受ける。
保安4年(1123年)正月28日に皇太子となり、同日、鳥羽天皇の譲位により践祚、2月19日に即位した。
大治4年(1129年)、関白・藤原忠通の長女である藤原聖子(皇嘉門院)が入内する。
同年7月7日、白河法皇が亡くなり鳥羽上皇が院政を開始する。
翌大治5年(1130年)、聖子は中宮に冊立された。
天皇と聖子との夫婦仲は良好だったが子供は生まれず、保延6年(1140年)9月2日女房・兵衛佐局が天皇の第一皇子・重仁親王を産むと、聖子と忠通は不快感を抱いたという。

すとくてんのう [生]元永2(1119).5.28.京都[没]長寛2(1164).8.26.讃岐第75代の天皇(在位1123~41)。名は顕仁(あきひと)。鳥羽天皇の第1皇子,母は中宮待賢門院藤原璋子。保安4(23)年即位したが,白河法皇,次いで鳥羽上皇が院政をとった。鳥羽上皇は永治1(41)年崇徳天皇を退位させて寵妃美福門院藤原得子の子体仁(なりひと)親王を近衛天皇とし,鳥羽法皇を本院,崇徳上皇を新院と称し,政令は本院から出した。久寿2(55)年近衛天皇が崩御すると,上皇はその子重仁親王を推したが,美福門院が鳥羽法皇をはかって上皇の弟後白河天皇を立てた。このため保元1(56)年法皇の死を機として上皇は,左大臣藤原頼長らとはかり後白河天皇を襲った(→保元・平治の乱)が,敗れて讃岐に流された。陵墓は香川県坂出市青海町の白峰陵。 (引用元 コトバンク)