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浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)

赤穂藩主[日本]

(江戸城内で吉良上野介に斬りかかる、元禄14年3月14日没)

1701年 4月21日 死去切腹享年35歳

浅野内匠頭 - ウィキペディアより引用

『浅野長矩』より : 浅野 長矩(あさの ながのり)は、播磨赤穂藩の第3代藩主。
官位は従五位下 内匠頭。
官名から浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)と呼称されることが多い。
赤穂事件を演劇化した作品群『忠臣蔵』を通じて有名。
生涯 赤穂藩主 寛文7年8月11日(1667年9月28日)、浅野長友の長男として江戸鉄砲洲(現東京都中央区明石町)にある浅野家上屋敷(現在聖路加国際大学がある場所)において生まれる。
母は長友正室で鳥羽藩主・内藤忠政の娘・波知。
幼名は祖父・長直、父・長友と同じ又一郎。
寛文11年(1671年)3月に父・長友が藩主に就任したが、その3年後の延宝3年1月26日(1675年2月20日)に長友が死去。
また生母である内藤氏の波知も寛文12年12月20日(1673年2月6日)に亡くなっており、長矩は幼少期に父も母も失った。
延宝3年3月25日(1675年4月19日)、長矩は9歳で赤穂浅野家の家督を継ぎ、第3代藩主となる。
同年4月7日(5月1日)には4代将軍・徳川家綱に初めて拝謁し、父の遺物備前守家の刀を献上。

江戸中期の大名。播州赤穂藩浅野家三代藩主。名を長矩(ながのり)という。 寛文7年8月11日(1667年9月28日)〜元禄14年3月14日(1701年4月21日)。 官位は従五位下。官名が内匠頭(たくみのかみ)であるため、浅野内匠頭と呼ばれている。 元禄14年3月14日(1701年4月21日)、江戸城松の廊下で高家・吉良上野介に対し刃傷に及ぶが本懐ならず、即日切腹を言い渡される。上野介に遺恨を持っていたとされるが、遺恨の原因や、犯行当時正常な精神状態であったかについては諸説ある。東山天皇はこの話を聞くと浅野の行動に理解を示したという。浅野が統治していた時代、赤穂の農民に対する重税は苛烈を極め、刃傷事件の結果藩が取り潰された時、庶民は餅をついて祝ったという。 元禄15年12月14日(1703年1月30日)、赤穂藩主席家老・大石内蔵助ら47名が吉良邸に討ち入り、「主君・内匠頭の仇」と彼らが見なしていた吉良を討つ。この事件に脚色を加えたものが「忠臣蔵」として語り継がれる。 2009年に亡くなった女優の大原麗子は子孫にあたる*1。 (引用元 Hatena Keyword)