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北条高時(ほうじょうたかとき)

武将、鎌倉幕府第14代執権[日本]

(元弘3年5月22日没)

(ユリウス暦) 1333年 7月4日 死去自刃享年31歳

北条高時 - ウィキペディアより引用

北条 高時(ほうじょう たかとき)は、鎌倉時代末期の北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第14代執権(在職:1316年 - 1326年)。
第9代執権北条貞時の三男。
生涯 誕生と元服 嘉元元年12月2日(1304年1月9日)、北条貞時の三男として生まれる。
延慶2年(1309年)に7歳で元服する。
この詳しい様子を伝える史料は今のところ発見されていないが、それまでの得宗家当主 と同様に、幕府の御所において、将軍(当時は守邦親王)を烏帽子親として行われたものと考えられている。
元服に際しては烏帽子親の偏諱(実名の1字)を受けることが多いが、「高時」の名乗りを見て分かる通り、将軍の偏諱(守邦親王の「守」または「邦」の1字)は受けなかったようである。
同時代(の上の立場)の者で「高」の字を用いる人物はおらず、研究では祖先とされる平高望(高望王)に肖ったものとする見解が示されている。
元々は細川重男がこの説(加えて父・貞時の「貞」が平貞盛に由来するとする説)を唱えたものの根拠なしとして論文等では示してはいなかったが、角田朋彦が根拠付きでこれを支持している。

ほうじょうたかとき [生]嘉元1(1303).鎌倉[没]元弘3=正慶2(1333).5.22.鎌倉鎌倉幕府の14代執権(在職1316~26)。相模守貞時の子。母は大宝(だいほう)泰宗の娘。幼名は成寿。法名は崇鑑。日輪寺殿と称する。正和5(1316)年7月執権に就任したが,実権は岳父安達時顕,内管領長崎円喜,高資父子が握っていたため,闘犬,田楽,飲酒などにふけり幕政は乱れた。一方,両統迭立による持明院統と大覚寺統の対立抗争も激化しており,大覚寺統の後醍醐天皇を中心に倒幕計画がなされ,元亨4(24)年正中の変が起った。高時は正中3(26)年3月病気を理由に執権職を金沢貞顕に譲り出家。元弘1=元徳3(31)年再び倒幕を意図した元弘の乱が起ると,後醍醐天皇を隠岐に流し,倒幕勢力の一掃をはかった。元弘3=正慶2(33)年5月新田義貞が挙兵して鎌倉に攻め入ると,高時は逃れて東勝寺に入って自殺し,鎌倉幕府は滅びた。 (引用元 コトバンク)