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北条義時(ほうじょうよしとき)

武将、鎌倉幕府第2代執権[日本]

(元仁元年6月13日没)

(ユリウス暦) 1224年 7月1日 死去享年62歳

北条 義時(ほうじょう よしとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。
鎌倉幕府の第2代執権。
伊豆国の在地豪族・北条時政の次男。
源頼朝の正室・北条政子の弟。
得宗家当主。
源氏将軍が途絶えた後の、鎌倉幕府の実質的な最高指導者。
幕府と朝廷の対立が激化すると、後鳥羽上皇より北条義時追討の宣旨が全国に発布され朝敵となるも、幕府軍は京都に攻め上り、朝廷を制圧(承久の乱)。
戦後に天皇を廃し3人の上皇を配流した。
生涯 青年期 北条時政の次男として生まれ、江間小四郎と称した。
母ははっきりしていないが、系図には「伊東入道の娘」とある。
義時が15、6歳の頃に姉の政子が伊豆の流人であった源頼朝の妻となっている。
治承4年(1180年)8月17日、義時は父・時政、兄・宗時と共に頼朝の挙兵に従うが、石橋山の戦いで大庭景親に敗北して宗時が戦死する。
頼朝、土肥実平らは箱根山から真鶴半島へ逃れ、28日、真鶴岬(神奈川県真鶴町)から出航して安房国に脱出した。
時政・義時も別ルートで前日に安房に脱出し、現地で頼朝と合流した。

ほうじょうよしとき [生]長寛1(1163)[没]元仁1(1224).6.13.鎌倉鎌倉幕府の2代執権(在職1205~24)。時政の子。幼名は江馬小四郎。伊豆国北条を本領とした。治承4(1180)年頼朝の挙兵以来,父とともに協力し,平氏征討,奥州藤原氏討伐に参戦。元久1(1204)年従五位下,相模守。同2年6月武蔵国二俣川で畠山重忠と戦ってこれを破った。同年閏7月父時政の失脚ののち,あとをうけて執権に就任。建保1(13)年侍所別当和田義盛と戦って勝ち,侍所別当となった。同4年従四位下,同5年右京権大夫兼陸奥守。承久1(19)年将軍源実朝横死ののち左大臣九条道家の子三寅(のちの将軍藤原頼経)を鎌倉に迎えて幕府の主とし,みずから幕政の実権を握った。同3年後鳥羽上皇の倒幕計画に大軍を派遣して京都を占領させ(→承久の乱),上皇以下順徳天皇,土御門上皇ら関係者を処罰し,鎌倉幕府は全国的政権へと発展していった。 (引用元 コトバンク)