芸能人・経営者のおくやみ情報

足利義政

室町幕府第8代将軍[日本]

(延徳2年1月7日没)

(ユリウス暦) 1490年 1月27日 死去享年55歳

足利義政 - ウィキペディアより引用

足利 義政(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。
父は6代将軍足利義教、母は日野重子。
早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。
初名は足利 義成(- よししげ)。
幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。
幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。
生涯 将軍職就任 永享8年(1436年)1月2日、第6代将軍足利義教の3男として生まれる。
次期将軍として期待されていた同母兄の足利義勝が政所執事であった伊勢貞国の屋敷で育てられたのに対して、その可能性が低かった義政は母方の一族である公家の烏丸資任の屋敷にて育てられた。
嘉吉元年(1441年)、父が嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺された後、兄の義勝が7代将軍として継いだが、嘉吉3年(1443年)に義勝も早世したため、義政は管領の畠山持国などの後見を得て、8歳で将軍職に選出され、元服を迎えた文安6年4月29日(1449年)に将軍宣下を受けて同日のうちに吉書始を行って宮中に参内、正式に第8代将軍として就任した。

室町幕府の第8代将軍。(在宝徳元(1449)年〜文明5(1473)年) 六代将軍の足利義教の子。夫人は日野富子。 元服後の最初の名前は義成(よししげ)。後に義政と改名。父義教の政治姿勢を継承して守護大名への家督への介入を行なおうとした。関東公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を誅殺した享徳の乱に介入し、今川範忠に命じて関東公方を古河に追い、さらに弟の足利政知を関東公方に任じるが、鎌倉に入ることが出来ず、成氏(古河公方)と政知(堀越公方)の関東公方分裂を招く。尾張国守護代織田氏の内紛にも介入しようとするが、尾張国守護の斯波氏の反発を受け、さらに管領畠山持国や母の日野重子も反対したため、失敗に帰する。 寛正の大飢饉(1460−61)にあたって百貫文(1000万円ほど)の援助のみで、自身のぜいたくを改めなかったことから反発を買う。 子がなかったので弟の足利義視を養子として後継将軍とするつもりが、実子足利義尚の誕生に伴う相続争いが発生。文正元(1466)年政所執事で義尚後見役の伊勢貞親が義尚の家督継承を願い、義視排斥を企てるが、細川勝元・山名宗全ら幕閣の実力者に反対され、貞親の他に貞親に近いとみられた斯波義敏・赤松政則・季瓊真蘂らが没落し、義政は主導権を失い、義政親政は挫折する(文正の政変)。 幕閣の有力者である畠山持国の子の畠山義就と甥の畠山政長の対立を調停できずに応仁の乱の勃発を招く。 応仁の乱には一貫して東軍側に属し、弟の義視を後継者と考えていたが、義視が日野勝光(富子の兄)排斥を迫ると、義視の仇敵の伊勢貞親を復活させ、義視 …… (引用元 Hatena Keyword)