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木曽義仲(きそよしなか)

信濃源氏の武将[日本]

(寿永3年1月20日没)

(ユリウス暦) 1184年 3月4日 死去討死享年31歳

木曽義仲 - ウィキペディアより引用

『源義仲』より : 源 義仲 (みなもと の よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将。
河内源氏の一族、源義賢の次男。
源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。
木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。
『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。
以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。
連年の飢饉と平氏の狼藉によって荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安維持の失敗と大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。
法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となるが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。
生涯 生い立ち 河内源氏の一門で東宮帯刀先生を務めた源義賢の次男として生まれる。
幼名は駒王丸。
義賢は武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘を娶るが、義仲の生母は遊女と伝えられる。
義仲の前半生に関する史料はほとんどなく、出生地は義賢が館を構えた武蔵国の大蔵館(現・埼玉県比企郡嵐山町)と伝えられる。

源義賢の次男。源頼朝・義経の従兄弟。 父が源義平の襲撃を受けて武蔵国の大蔵館で殺害されたため、乳人中原兼遠のもと信濃国木曽で育てられた。 治承四年(1180)、兵を挙げ、信濃国から上野国へ進出すると頼朝と対立。一子清水義高を鎌倉へ人質に送って対立を回避し、北陸へ勢力を扶植。倶利伽羅峠の戦いで平家の大軍を撃破。 西海へ没落した平家と入れ替わりに上洛するが、早々に後白河法皇と対立。平家の追討にも失敗し、追いつめられた義仲は院御所である法住寺殿を攻撃。院方の軍勢を蹴散らすと法皇を幽閉し、院近臣らを解官。自ら征夷大将軍となって朝日将軍と号した。 しかし頼朝の命を受けて西上する源範頼・義経軍を勢多・宇治で迎え討つが敗れ、近江国粟津で討死した。 (引用元 Hatena Keyword)