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蘇我入鹿(そがいるか)

飛鳥時代の貴族[日本]

(ユリウス暦) 0645年 7月10日 死去討死享年歳

蘇我入鹿 - ウィキペディアより引用

蘇我 入鹿(そが の いるか、推古天皇18年(610年)? - 皇極天皇4年(645年)6月12日)は、飛鳥時代の豪族。
大臣として大和朝廷の有力者であったが、大化の改新の前夜乙巳の変において討たれ、その後蘇我氏が凋落するきっかけとなった。
生涯 以下は主に『日本書紀』などの記述による。
日付は旧暦である。
青少年期は僧・旻に学問堂で学んだ秀才だったと言われている。
生年は不詳だが、父の蘇我蝦夷の生年は586年頃と言われているため、生年は600年~610年頃と思われる。
蝦夷が大臣であった642年(皇極天皇元年)、皇極天皇の即位に伴い、父に代わって国政を掌理する。
同年7月23日には従者が白色の雀の雛を手に入れた。
雀は祖父の蘇我馬子を表された事があるとされている。
翌643年(皇極天皇2年)の10月6日には父から独断で大臣を譲られる。
これにより、実質的にも形式的にも蘇我氏の家督を継いだという見方があるが、この頃聖徳太子以来、皇室の周辺に国政を天皇中心に改革せんとする気運が強まったとされ、入鹿はこのような動きを押さえ蘇我氏の縁の強い古人大兄皇子を天皇につけようと図ったが、そのために邪魔になる聖徳太子の王子、山背大兄王ら上宮王家の人々を自殺に追い込んだ。

そがのいるか [生]?[没]皇極4(645).6.12.大和古代の中央豪族。蝦夷(えみし)の子。鞍作臣とも呼ばれた。皇極天皇のときの権臣で,その権力は大臣の父蝦夷よりまさっていたといわれる。入鹿は聖徳太子の死後,上宮王家を排斥し,皇極2(643)年舒明天皇の皇子で,馬子の娘の生んだ古人大兄王を即位させるために,太子の子山背大兄王の一族を斑鳩に襲って斑鳩寺(法隆寺)で自殺させた。翌3年甘橿丘(あまかしのおか)に家を建て並べ,父の家を「宮門(みかど)」,自分の家を「谷(はざま)の宮門」と呼び,子を王子と称して家を武力で固めた。この強圧政策のため人心は動揺した。この前後から,中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌子(のちの藤原鎌足)は,反対派の豪族たちと蘇我氏討滅の計を進めていたが,三韓朝貢の日,ついにクーデターを断行。入鹿は飛鳥板蓋宮の大極殿で殺された。 (引用元 コトバンク)