芸能人・経営者のおくやみ情報

蘇我蝦夷(そがのえみし)

飛鳥時代の貴族[日本]

(ユリウス暦) 0645年 7月11日 死去自害享年歳

蘇我 蝦夷(そが の えみし)は、飛鳥時代の政治家、貴族。
大臣として権勢を振るうが乙巳の変で自害した。
『日本書紀』では蘇我蝦夷、通称は豊浦大臣(とゆらのおおおみ)。
『上宮聖徳法王帝説』では「蘇我豊浦毛人」。
蝦夷の精強な印象を良いイメージとして借用した名前である(小野毛人や佐伯今毛人、鴨蝦夷らも「えみし」を名として使用している)。
蝦夷は蔑称であり、毛人が本名との説があるが「蝦夷」も「毛人」も同じ対象を指す。
生涯 蘇我馬子の子で、母は物部守屋の妹・太媛。
推古天皇末年から皇極天皇の御代にかけて大臣として権勢をふるった。
推古天皇の崩御後、皇位継承者の選定に当たり、推古天皇の遺勅として田村皇子を舒明天皇として即位させた。
有力な皇位継承の候補者としては、田村皇子と山背大兄王がいたが、山背大兄王を推薦した叔父の境部摩理勢を殺害した。
『日本書紀』はこれを蝦夷の専横の一つに数えるが、父・馬子の死後、蘇我氏に対する内外の風当たりが強くなる中で、皇族や諸豪族との融和を重視して、蘇我氏との血縁関係のない舒明天皇を即位させたという説もある。

そがのえみし [生]?[没]皇極4(645).6.13.大和古代の中央豪族。馬子の子,入鹿の父。豊浦大臣と呼ばれ,毛人とも書く。推古34(626)年父の死後,大臣になったらしい。推古天皇が皇嗣を定めることなく崩御したため,聖徳太子の子山背大兄王と敏達天皇の孫田村皇子の間で皇位継承問題が起り,蝦夷は叔父境部摩理勢らの反対を強引に押切って,田村皇子を皇位につかせた。これが舒明天皇である。蝦夷は舒明8(636)年大派(おおまた)王に参朝の怠慢を指摘されたが従わず,皇極天皇即位後も大臣としてとどまり,子入鹿が国政をとった。皇極1(642)年祖廟を葛城高宮に建て,天下の民部曲(かきべ),さらに聖徳太子一族の私有民まで使役して今来に2つの墓を造り,これを大陵(おおみささぎ),小陵と称した。翌年,入鹿に紫冠を授けて大臣とし,弟を物部大臣と称した。翌3年甘橿丘(あまかしのおか)に家を建て,「宮門(みかど)」と称した。前年,山背大兄王を殺した入鹿が,4年の三韓朝貢の日に中大兄皇子に殺され,みずからも誅せられるにのぞみ自邸に放火し自殺した。このとき『天皇記』『国記』などを同時に焼失した。彼らの誅伐によって,蘇我氏の宗族は滅亡し,大化改新が断行されることとなった。『扶桑略記』には,斉明天皇のときに,彼の霊威についての風説があったことを記している。 (引用元 コトバンク)