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杉原千畝 氏(すぎはらちうね)

官僚、外交官[日本]

1986年 7月31日 死去心臓病享年86歳

杉原千畝 - ウィキペディアより引用

杉原 千畝(すぎはら ちうね、1900年(明治33年)1月1日 - 1986年(昭和61年)7月31日)とは、日本の官僚、外交官である。
第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。
1940年7月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる。
その避難民の多くが、ユダヤ系であった。
「東洋のシンドラー」などと呼ばれることがある。
早稲田大学高等師範部英語(教育学部英語英文学科)科予科中退、日露協会学校特修科修了。
生涯 外交官になるまで 1900年(明治33年)1月1日、岐阜県に生まれる。
近年まで加茂郡八百津町生まれと言われていたが、先般戸籍を確認すると、武儀郡上有知町(現在の美濃市)であることが明らかになった。
父好水(よしみ)は税務官吏で、千畝出生の当時、上有知町の税務署に勤めていた。
一家は、近くの仏教寺である教泉寺の借間に住んでおり、千畝はそこで生を受けた。

外交官。第二次大戦勃発時、リトアニア共和国カウナスの領事代理に在任中、ナチスドイツの迫害を受けていたユダヤ人約6,000名に、受給資格を満たしていないにもかかわらず、独断で渡航ビザを発給した。戦後、外務省の人員整理の対象となり外交官を辞職するが、その人道的行為は彼の逝去(1986)の後に世界から高い評価を受けるようになる。また、やはり当時、ナチスドイツのホロコーストから多数のユダヤ人を救ったオスカー・シンドラーの功績になぞらえて、「日本のシンドラー」と呼ばれることもある。 なお、彼の行動に対する日本政府の対応については諸説ある。上述のように杉原は戦後の1947年、外務省を辞職することになるが、この件に関して杉原の妻は、ビザ発給の件に対する責任が免官の理由として挙がったと主張している。一方で、外務省の記録によれば、ビザ発給の4年後の昭和19年に叙勲(勲五等瑞宝章)されている。また、「退職までの間、昇給、昇進も順調」だったし、「退職金、年金についても、不利な扱いはいっさい受けていなかった」ともされ、これらを理由に「日本政府は杉原の行動を黙認していた」とする説がある。なお、これに対しては、対ソ連外交における杉原の外交官としての高い実力が買われていた側面を反映したものだ、とする意見もある。 この意見対立は主に、第二次世界大戦(太平洋戦争)を遂行した当時の日本政府に対する戦後評価の問題が背景にある。日本は当時、ユダヤ人の迫害を行っていたナチスドイツと同盟関係にあった。そのため、「杉原のビザ発給に対して日本政府が肯定的であった …… (引用元 Hatena Keyword)