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新井白石(あらいはくせき)

旗本、政治家、学者[日本]

(享保10年5月19日没)

1725年 6月29日 死去享年69歳

新井白石 - ウィキペディアより引用

新井 白石(あらい はくせき)は、江戸時代中期の旗本・政治家・学者。
一介の無役の旗本でありながら六代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。
家宣の死後も幼君の七代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折し八代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。
学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に亘る。
また詩人で多くの漢詩が伝わる。
白石は号で、諱は君美(きみよし、有職読みで きんみ)。
生涯 生い立ち 先祖は、上野国新田郡新井村(群馬県太田市)の土豪だったが、豊臣秀吉の小田原征伐によって没落したといわれている。
のちに父・正済は上総久留里藩に仕官し、目付をつとめている。
白石は明暦の大火の翌日の明暦3年(1657年)2月10日、焼け出された避難先で生まれた。
幼少の頃より学芸に非凡な才能を示し、わずか3歳にして父の読む儒学の書物をそっくり書き写していたという伝説を持つ。

江戸中期の儒学者・政治家(1657〜1725). 上総国久留里藩藩士新井正済(あらいまさなり)の子.名は君美(きんみ),白石は号,字は在中・済美,通称は与五郎・伝蔵・勘解由. 久留里藩に仕えた後,牢人となる.1693(元禄六)年に師である朱子学者木下順庵の推挙で甲府藩主徳川綱豊の侍講となる.綱豊が六代将軍徳川家宣として将軍に就任すると,幕政に参画.家宣死後も七代将軍家継を補佐して正徳の治を断行.武家諸法度改訂・貨幣改鋳・正徳長崎新例施行・朝鮮使節応接簡素化*1などを行うが,家継没後,徳川吉宗が将軍に就任すると失脚. 失脚後は著述に専念.朱子学を基本として言語学・歴史学にも長じ,『東雅』『古史通』『読史余諭』は代表的著作.また,密航してきたイタリア人宣教師シドッティの取調べ結果などをもとにした『西洋紀聞』『采覧異言』などの著作は洋学への途を開くものであり,『折りたく柴の記』や『藩翰譜』など,こんにちの幕政史研究の必須書も著す. *1:この際に,同じく木門の対馬藩儒学者雨森芳洲と論争を繰り広げた. (引用元 Hatena Keyword)