松平定信(まつだいらさだのぶ)
大名、老中首座[日本]
(文政12年5月13日没)
1829年 6月14日 死去享年72歳
松平 定信(まつだいら さだのぶ、宝暦8年12月27日〈1759年1月25日〉- 文政12年5月13日〈1829年6月14日〉)は、江戸時代中期の大名、老中。
陸奥国白河藩の第3代藩主。
定綱系久松松平家9代当主。
江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫。
老中であった1787年から1793年まで寛政の改革を行った。
定信は前任の田沼意次の政策をことごとく覆したとされているが、近年では、寛政の改革による政治は、田沼時代のものと連続面があるとの指摘もされている。
生涯=
出生=
宝暦8年12月27日(単純な換算で宝暦8年は1758年になるが、グレゴリオ暦では既に新年を迎えており、1759年である)、御三卿の田安徳川家の初代当主・徳川宗武の七男として生まれる。
実際の生まれは12月26日の亥の半刻(午後10時ころ)であったが、田安徳川家の系譜では27日とされ、また「田藩事実」では12月28日とされている。
宝暦9年(1759年)1月9日に幼名・賢丸【まさまる】と命名された。
生母は香詮院殿(山村氏・とや)で、生母の実家は尾張藩の家臣として木曾を支配しつつ、幕府から木曾にある福島関所を預かってきた。
とやの祖父は山村家の分家で京都の公家である近衛家に仕える山村三安で、子の山村三演は采女と称して本家の厄介となった。
とやは三演の娘で、本家の山村良啓の養女となる。
宗武の正室は近衛家の出身であるため、とやも田安徳川家に仕えて宗武の寵愛を受けた。
定信は側室の子(庶子)であったが、宗武の男 ……
松平定信が亡くなってから、195年と161日が経過しました。(71385日)