阿部正弘(あべまさひろ)
備後福山藩主、老中首座[日本]
(安政4年6月17日没)
1857年 8月6日 死去享年39歳
阿部 正弘(あべ まさひろ)は、江戸時代末期の備後国福山藩の第7代藩主。
江戸幕府の老中首座を務め、幕末の動乱期にあって安政の改革を断行した。
阿部宗家第11代当主。
生涯=
出生=
文政2年10月16日(1819年12月3日)、第5代藩主・阿部正精の5男として江戸西の丸屋敷で生まれた。
文政9年6月20日(1826年7月24日)に父・正精が死去して兄の正寧が家督を継ぐと、正弘は本郷(文京区)の中屋敷へ移った(現在でも中屋敷のあった文京区西片には文京区立誠之小学校、西片公園(阿部公園)など、由来する施設が残っている)。
しかし正寧は病弱だったため、10年後の天保7年(1836年)12月25日、正弘に家督を譲って隠居した。
天保8年(1837年)、正弘は福山へのお国入りを行った。
正弘が国元へ帰ったのはこの1度のみである。
天保9年(1838年)9月1日、奏者番に任じられる。
天保11年(1840年)5月19日には寺社奉行見習に、11月には寺社奉行に任じられ、感応寺の破却などを行なっている。
大奥と僧侶が徳川家斉時代に乱交を極めていた事件が、家斉没後に寺社奉行となった正弘の時代に露見すると、正弘は家斉の非を表面化させることを恐れて僧侶の日啓や日尚らを処断し、大奥の処分はほとんど一部だけに限定した。
この裁断により、第12代将軍・徳川家慶より目をかけられるようになった。
老中就任=
天保14年(1843年)閏9月11日、25歳で老中となり、幕府を動かすようになった。
辰の口(千代 ……
阿部正弘が亡くなってから、167年と108日が経過しました。(61105日)