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大下弘 氏(おおしたひろし)

プロ野球選手、元監督[日本]

(「青バット」)

1979年 5月23日 死去睡眠薬自殺享年58歳

大下弘 - ウィキペディアより引用

大下 弘(おおした ひろし、1922年12月15日 - 1979年5月23日)は、兵庫県神戸市三宮出身のプロ野球選手(外野手)・監督。
青バットの大下として、赤バットの川上哲治、物干し竿の藤村富美男と共に終戦直後の日本プロ野球界を代表する存在であった。
特に少年達からの人気は絶大であり、美空ひばりと並ぶ終戦直後の日本における国民的スターであった。
プロ入り前 1936年、台湾高雄市に移る。
1940年3月、高雄商業学校卒業後、1940年4月、明治大学予科(3年制)に進学、予科卒業、商学部(3年制)に進学。
1943年には戦局の悪化でリーグ戦が中止となる。
同年5月23日に立教大学との間で行われた、戦前戦中では最後の対外試合にも出場した。
当時のチームの主将は嶋清一で、大下と嶋の打撃フォームの類似を指摘する説がある。
同年、学徒出陣。
埼玉県豊岡にある陸軍航空士官学校卒業し帝国陸軍少尉、特攻隊員候補として終戦を迎える。
終戦後、明治大学商学部に復学する。
現役時代 戦後プロ野球再開と同時に新設球団セネタース に入団し、1945年11月の東西対抗戦で、戦後初となるサク越え本塁打を放ちデビュー。

戦後のプロ野球選手。通称「青バット」「ボンちゃん」。 左投左打、ポジションは外野手。背番号は3番。 1922年12月15日生まれ。兵庫県生まれ、台湾・高雄出身。 1936年台湾高雄市に移る。明治大学在学中に応召、陸軍航空隊員となる。 1945年9月、復員後、セネタースに誘われ入団。同年11月の東西対抗戦で6打数3安打で飾る。 1946年、20本塁打を記録*1 1947年からは川上哲治の赤バットに対抗し、青バットの使用を開始。二度目の本塁打王と初の首位打者を獲得。赤バットの川上、青バットの大下と並び称された。 1949年、東急フライヤーズで日本プロ野球最長とも言われる推定飛距離170mの本塁打*2を放つ。 1950年からの二リーグ分立後もフライヤーズに属し、初年度から二年連続首位打者。1951年、三度目の本塁打王を獲得。 1952年、宇高勲の説得により、深見安博・緒方俊明との1対2の交換トレードで西鉄ライオンズに移籍。 三原脩*3の元、ライオンズ野武士軍団の3番打者として、1956年以降の3年連続日本一に大いに貢献。チームを支えた。 1リーグ制末期から草創期パ・リーグを代表する大打者として戦後日本のプロ野球を支えた。 1959年、打率.303を残しながら現役引退。 1960年3月1日、背番号3番が永久欠番*4となる。 1961年、阪急ブレーブスのコーチに就任。 1968年、東映フライヤーズの監督に就任し復帰するも、成績不振の為にシーズン途中で退任。 1978年、脳血栓で倒れる。 1979年5月23日、千葉市内の自宅で睡眠薬自殺し、逝去。 1980年、野球殿堂入り。 (引用元 Hatena Keyword)