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池田光政(いけだみつまさ)

播磨姫路・備前岡山藩主[日本]

(天和2年5月22日没)

1682年 6月27日 死去享年74歳

池田光政 - ウィキペディアより引用

池田 光政(いけだ みつまさ)は、播磨姫路藩第3代藩主、因幡鳥取藩主、備前岡山藩初代藩主。
岡山藩池田宗家3代。
生涯 家督相続 姫路藩の第2代藩主・池田利隆の長男。
母は江戸幕府2代将軍・秀忠の養女で榊原康政の娘・鶴姫。
当時の岡山藩主・池田忠継(光政の叔父)が幼少のため、利隆は岡山城代も兼ねており、光政はそこで生まれた。
慶長16年(1611年)に江戸に赴いて秀忠に謁見し、国俊の脇差を与えられる。
慶長18年(1613年)に祖父の池田輝政が死去したため、父と共に岡山から姫路に移った。
同じ年に父と共に徳川家康に謁見する。
このとき家康は5歳の光政を膝下近くにまで召して髪をかきなでながら「三左衛門の孫よ。
早く立派に成長されよ」と言葉をかけた。
そして脇差を与えたが、光政は家康の前で脇差をするりと抜き、じっと見つめながら「これは本物じゃ」と語った。
家康は光政の態度に笑いながら「危ない、危ない」と言って自ら鞘に収めた。
そして光政が退出した後、「眼光の凄まじさ、唯人ならず」と感嘆したという。
元和2年(1616年)6月13日に父・利隆が死去した。

江戸前期の備前岡山藩主。利隆の子。初名は幸隆。父歿後、播磨藩を継ぐが、幼少を理由に減封され鳥取城へ移る。元和9年(1623)将軍徳川家光の偏諱をうけて光政と称する。のち鳥取から岡山に入城、三十一万五千余石を領する。幼時より学を好み、中江藤樹を慕う。藤樹歿後は熊沢蕃山を国政顧問として重用する。諸制を改革、文武を奨励し藩政改革に尽力する。天和2年(1682)歿、74才。 (引用元 コトバンク)