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津田永忠(つだながただ)

岡山藩士[日本]

(宝永4年2月5日没)

1707年 3月8日 死去享年68歳

津田永忠 - ウィキペディアより引用

津田 永忠(つだ ながただ、寛永17年(1640年) - 宝永4年2月5日(1707年3月8日))は、江戸時代前期の岡山藩士。
岡山藩主の補佐役として土木事業を行い、藩の産業・生活の基盤造りに尽力した。
生涯 現在の岡山市弓之町で、600石取りの岡山藩士津田左源太の三男として生まれる。
幼名は又六。
字は最初、八大夫のちに重二郎、晩年は父の名を嗣ぎ左源太と名乗る。
14歳のとき藩主・池田光政に初めて拝謁し、児小姓に取り立てられる。
光政に才能を認められ20歳で児小姓仲間横目役となり、のち150石取りに昇進。
25歳で300石取りとなり藩政の最高評議機関である評定所に列座する。
寛文7年(1667年)和意谷池田家墓所造営の総奉行に任命される。
これが土木事業の最初の仕事となった。
これは京都妙心寺護国院にあった池田家先祖の墓を和意谷敦土山(あづちやま、備前市吉永)に改葬する事業である。
寛文9年(1669年)旭川の洪水から岡山城下を守るため、放水路である百間川を開削する。
翌、寛文10年(1670年)には閑谷学校建設を任された。
また、閑谷の南方にある友延新田へは、古代中国の井田制による地割を実施した。

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