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真田幸村(さなだゆきむら)

戦国武将[日本]

(名は信繁、幸村は江戸時代に付けられた架空の名、慶長20年5月7日没)

1615年 6月3日 死去戦死享年49歳

真田幸村 - ウィキペディアより引用

『真田信繁』より : 真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。
真田昌幸の次男。
真田幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。
江戸時代初期の大坂の陣で豊臣方の武将として活躍した。
特に大坂夏の陣において3,500の兵を率いて徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な武者振りの話が、江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、後世、そこから軍記物、講談、草双紙(絵本)などが創作された。
さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。
「真田幸村」の由来 「真田幸村」の名が広く知られているが、諱は「信繁」が正しい。
直筆の書状を始め、生前の確か史料で「幸村」の名が使われているものは無く、幸村と署名された古文書が二通現存しているものの、いずれも明らかな偽文書で、信繁が幸村と自称したことの証明にはならず、真田左衛門佐の諱は信繁であったと判断できるからである。

戦国時代の武将・真田信繁(源次郎信繁)の通称。1567年〜1615年。 父の真田昌幸は、武田家に仕えるが、武田家が滅びると独立。上田城(長野県上田市)に本拠を構える。 関ヶ原の戦いの際は、兄の真田信之は東軍に付き、真田昌幸・幸村は西軍側に付き、中山道を通った徳川秀忠の軍を足止めした。 高野山に蟄居を命じられるが抜けだし、大阪冬の陣・大阪夏の陣に参加。真田丸の砲撃や家康本陣突入などを行う。 幸村の最期は松平忠直隊の鉄砲頭・西尾宗次の銃弾を浴び死去 次男・大八と四女・阿梅は、伊達政宗の重臣・片倉重綱に保護され 大八は片倉守信と名を変えて片倉家に匿われたほか、阿梅は重綱に嫁いだ。 1712年、仙台藩主より「既に幕府を憚るに及ばず」と内命があり 正式に仙台真田家が復興した*1。 なお兄の真田信之の家系は、上田から松代十万石(現・長野市松代町)と沼田三万石(現・群馬県沼田市) に分割・移封され、沼田藩は改易されたものの、松代藩の家系は現在まで続いている。 *1:「仙台真田系譜」 (引用元 Hatena Keyword)