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近藤勇(こんどういさみ)

新撰組組長、幕臣、慶応4年4月25日没[日本]

1868年 5月17日 死去斬首享年35歳

近藤勇 - ウィキペディアより引用

近藤 勇(こんどう いさみ)は、江戸時代末期の武士。
新選組局長を務め後に幕臣に取り立てられた。
勇は通称、諱は昌宜(まさよし)。
慶応4年(1868年)からは大久保剛、のちに大久保大和。
家紋は丸に三つ引。
生涯 出生から試衛場入門 武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)に百姓・宮川久次郎と母みよ(ゑい)の三男として生まれる。
幼名は勝五郎、後に勝太と改める。
久次郎には勝五郎の他に、長女・リエ(天保3年(1832年)に死去)、長男・音五郎(音次郎)、次男・粂蔵(くめぞう、粂次郎、惣兵衛)がいる。
ほか、祖父の源次郎がいる。
天保9年の上石原村の宗門人別改帳に拠れば、宮川家は多摩郡大沢村(三鷹市)の龍源寺の檀家で、高七石一升二合の6人家族。
石高から中流クラスの上層の家庭環境であったと判断される 。
嘉永元年(1849年)11月11日、勝五郎は江戸牛込(東京都新宿区)に所在する天然理心流剣術道場・試衛場に入門する。
勝五郎が入門した道場は「試衛館」として知られるが、多摩郡蓮光寺村(多摩市)の名主・富沢政恕日記および小島鹿之助『両雄士伝』に拠れば「試衛」は号で、「試衛場」と記されている。

(1834年11月9日〜1868年5月17日)幕臣、新撰組局長。武蔵国多摩郡石原村の農家の次男として生まれる。15歳の時、天然理心流三代目近藤周斎にその人柄と腕を見込まれ養子となる。26歳で天然理心流四代目を襲名、4年後の28歳の時に試衛館一党で十四代将軍家茂の守護を目的とする浪士組に参加し、上洛。 しかし京入りした途端、清河八郎が尊王攘夷の魁たらんと称え、浪士組は江戸へ戻ると言い出したため、試衛館一党、芹沢一派らはそのまま壬生に残ることとなる。一同は鵜殿鳩翁らの計らいもあって京都守護職・松平容保のお預かりとなり、壬生浪士組が誕生した。 八月十八日の政変でその存在を知らしめた彼らは、その日のうちに松平容保から市中見廻りの内命を受け、その通達の文書によって「新選組」の名が与えられる。文久三年九月芹沢一派の粛清を決行。以降、近藤が唯一の局長として新選組を背負う。 慶応三年十二月十八日 二条城での軍議の帰り、馬に乗って伏見街道の墨染辺りへさしかかった時、高台寺党残党の篠原泰之進らに狙撃され、右肩に銃創を負う。一命はとりとめたものの、鳥羽、伏見の戦いには参戦できなかった。 江戸へ引き上げ療養後、鳥羽伏見を戦い抜いてきた土方はじめ、隊士達を率い甲陽鎮撫隊として甲府城の接収に向かうも勝沼で敗走、下総流山で新選組再編成を図るが敵方に囲まれ、大久保大和として投降した。 慶応四年四月二十五日、板橋において斬首。享年35歳。その首級は板橋宿外の一里塚に晒され、のち京の三条河原に梟首された。 (引用元 Hatena Keyword)