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栄西(えいさい)

、日本臨済宗開祖[日本]

(建保3年7月5日入滅)

(ユリウス暦) 1215年 8月1日 死去享年75歳

栄西 - ウィキペディアより引用

明菴栄西(みょうあん えいさい/ようさい、永治元年(1141年) - 建保3年(1215年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧。
臨済宗の開祖、建仁寺の開山。
天台密教葉上流の流祖。
字が明菴、諱が栄西。
また、廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られる。
永治元年(1141年)吉備津神社の権禰宜賀陽貞遠の子として誕生。
4月20日 または一説に25日と言う。
生地は備中国賀陽郡(岡山県加陽郡は現在加賀郡吉備中央町)。
曽祖父は薩摩守貞政。
誕生地は、賀陽町(現岡山県加賀郡吉備中央町上竹)という説もある。
『紀氏系図』(『続群書類従』本)には異説として紀季重の子・重源の弟とする説を載せているが、これは重源が吉備津宮の再興に尽くしたことや重源が務めていた東大寺勧進職を栄西が継いだことから生じた説であり、史実ではないと考えられている。
久安4年(1148年) 8歳で『倶舎論』、『婆沙論』を読んだと伝えられる。
久寿元年(1154年) 14歳で比叡山延暦寺にて出家得度。
以後、延暦寺、吉備安養寺、伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学ぶ。

えいさい [生]保延7(1141).4.20.備中,吉備津[没]建保3(1215).6.5.鎌倉日本臨済宗の開祖。号を葉上房,字を明庵という。初め比叡山に登り天台の教学を修めたがあきたらず,仁安2(1167)年伯耆大山の基好のもとで勉学中唐本『法華経』に接して入宋の決意を固め,翌年4月入宋。天台山,阿育王山を歴訪し,禅に対する理解と興味を示し,中国天台宗に関する注釈書などを持って帰朝。以後天台の復興に禅の必要性を痛感し,文治3(87)年再び入宋。天台山で臨済禅を学び建久2(91)年帰国。筑前誓願寺において布教活動を始め,正治1(99)年鎌倉に入り,のちに将軍頼家の帰依を受け寿福寺を創立,建仁2(1202)年京都建仁寺を造立し,以後京都,鎌倉の間を往復して禅の弘通に努めた。建永1(06)年東大寺の重源のあとをうけて東大寺大仏の再建に尽力した。治承2(1178)年の筑前誓願寺の『誓願寺盂蘭盆一品経縁起』は栄西の遺品として名高く,その書風は宋風様式を示している。また茶の種子を宋から持帰り,日本に喫茶の習慣を広めた。著書に『興禅護国論』『一代経論釈』『喫茶養生記』などがある。弟子に釈円栄朝(しゃくえんえいちょう),退耕行勇(たいこうぎょうゆう)らが輩出した。 (引用元 コトバンク)