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柴田勝家(しばたかついえ)

戦国武将[日本]

(天正11年4月24日没)

1583年 6月14日 死去自刃享年62歳

柴田勝家 - ウィキペディアより引用

柴田 勝家(しばた かついえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名である。
生涯 織田信秀時代 大永2年(1522年)、『張州府誌』によると尾張国愛知郡上社村(現:愛知県名古屋市名東区)で生まれる。
生年には大永6年(1526年)説や大永7年(1527年)説もあり、明確ではない。
出自は不明で柴田勝義の子といわれるが、確実な資料はない。
おそらく土豪階層の家の出身であると思われる。
若いころから織田信秀の家臣として仕え、尾張国愛知郡下社村を領したという。
地位はわからないが織田信長の家督継承の頃には織田家の重鎮であった。
天文20年(1551年)に信秀が死去すると、子の織田信行(信勝)に家老として仕えた。
織田信勝時代 天文21年(1552年)の尾張下四郡を支配する守護代で清洲城主の織田信友との戦いでは、中条家忠とともに敵方の家老・坂井甚介を討ち取り、翌年には清洲城攻めで大将格で出陣し、30騎を討ち取る武功を立てた(萱津の戦い)。

しばたかついえ [生]大永2(1522).尾張[没]天正11(1583).4.24.越前,北庄安土桃山時代の武将。権六,のち修理亮と称した。初め織田信長の弟信行に仕え,織田家の老臣林信勝とともに信行の擁立をはかったが失敗し,信長の家臣となった。たびたび戦功をあげ,信長麾下第1の猛将といわれ,重臣として勢威を保った。天正3(1575)年信長から北陸経営をまかされ,越前北庄(きたのしょう)に拠って加賀,能登を平定。同10年越中に攻め入り越後の上杉景勝と対陣中,本能寺の変が起り,豊臣秀吉に明智光秀討滅の功を譲った。織田氏の後嗣問題で秀吉と対立,同11年4月これを除こうとして近江賤ヶ岳で戦ったが,逆に敗れ,居城北庄で妻小谷の方とともに自殺した。(→賤ヶ岳の戦い) (引用元 コトバンク)