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山中貞雄(やまなかさだお)

映画監督脚本家[日本]

1938年 9月17日 死去赤痢享年30歳

山中貞雄 - ウィキペディアより引用

山中 貞雄(やまなか さだお、1909年(明治42年)11月8日 - 1938年(昭和13年)9月17日)は、日本の映画監督、脚本家である。
京都府生まれ。
1909年(明治42年)11月8日、京都市東山区本町通五条下ルに、扇子職人の父・喜三右衛門、母・よその末子として生まれる。
1922年(大正11年)、旧制・京都市立第一商業学校(現在の京都市立西京高等学校)に入学、同級生にのちに松竹下加茂撮影所の脚本家となり「鳴滝組」の仲間となる藤井滋司、1年先輩に「日本映画の父」こと牧野省三の長男・マキノ正博(のちのマキノ雅弘)がいた。
山中自身も少年時より「カツキチ(活動写真きちがいの略)」と呼ばれるほど大の映画好きであった。
1927年(昭和2年)、一商の先輩であるマキノ正博を頼って、マキノ御室撮影所へ入社する。
城戸品郎監督の助監督に付くが動きが悪く、ロケの届け出専門だった。
1928年(昭和3年)、山中を持て余したマキノは脚本家兼助監督として、嵐寛寿郎の第一次嵐寛寿郎プロダクション(寛プロ)に推薦、移籍させる。

やまなかさだお [生]1909.11.7.京都[没]1938.9.17.開封映画監督。京都市立第一商業学校卒業後,マキノ映画に入社(1927)。翌年嵐寛寿郎プロへ移り,1932年監督第1作『抱寝の長脇差』を撮り,その新鮮な技法と時代劇感覚で一躍注目を浴びた。以後,『小判しぐれ』(32),『盤嶽の一生』(33),『街の入墨者』(35),『河内山宗俊』(36)その他ユニークな秀作を次々と発表したが,『人情紙風船』(37)を最後に召集を受け,中国で戦病死。 (引用元 コトバンク)