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山中貞雄(やまなかさだお)

映画監督脚本家[日本]

1938年 9月17日 死去赤痢享年30歳

山中貞雄 - ウィキペディアより引用

山中 貞雄(やまなか さだお、1909年11月8日 - 1938年9月17日)は、日本の映画監督、脚本家である。
サイレント映画からトーキーへの移行期にあたる1930年代の日本映画を代表する監督のひとりであり、28歳の若さで亡くなった天才監督として知られる。
わずか5年間の監督キャリアで26本の時代劇映画(共同監督作品を含む)を発表したが、今日までフィルムがまとまった形で現存する作品は『丹下左膳余話 百萬両の壺』(1935年)、『河内山宗俊』(1936年)、『人情紙風船』(1937年)の3本しかない。
1928年に時代劇スターの嵐寛寿郎主演作品のシナリオライターとしてキャリアを始め、1932年に22歳の若さで『磯の源太 抱寝の長脇差』で監督デビューし、一躍批評家の注目を浴びた。
その後『小判しぐれ』(1932年)、『盤嶽の一生』(1933年)、『風流活人剣』(1934年)、『国定忠次』『街の入墨者』(1935年)などを監督し、多くの作品が批評家に高く評価された。
サイレント時代は字幕と画面の組み合せによる独特の映画話術を確立し、トーキー時代は時代劇に現代劇の感覚やスタイルを採り入れた「髷をつけた現代劇(時代劇の小市民映画)」と呼ばれる作品を手がけた。
また、小津安二郎をはじめとする多くの映画人と盛んに交流し、1934年には親交を結んだ京都市鳴滝在住の映画人とシナリオ執筆集団「鳴滝組」を結成し、梶原金八の共同ペンネームで20本近くの時代劇映画のシナリオを執筆した。
1937年の『 ……

関連作品

山中貞雄が亡くなってから、85年と184日が経過しました。(31230日)