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徳川慶喜(とくがわよしのぶ)

江戸幕府将軍、一橋徳川家当主、政治家、伯爵[日本]

1913年 11月22日 死去感冒享年77歳

徳川慶喜 - ウィキペディアより引用

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ/よしひさ、旧字体:德川 慶喜)は、江戸時代末期(幕末)の江戸幕府第15代将軍(在職:1867年1月10日〈慶応2年12月5日〉- 1868年1月3日〈慶応3年12月9日〉)、明治時代の日本の政治家、華族。
位階・勲等・爵位は従一位勲一等公爵。
天保8年(1837年)9月29日、水戸藩主・徳川斉昭の七男として誕生。
母は有栖川宮織仁親王の第12王女・吉子女王。
初めは父・斉昭より偏諱を受けて松平昭致(まつだいら あきむね)、一橋家相続後は将軍・徳川家慶から偏諱を賜って徳川慶喜と名乗った。
将軍後見職や禁裏御守衛総督などを務めた後、徳川宗家を相続し将軍職に就任した。
歴史上最後の征夷大将軍であり、江戸幕府歴代将軍の中で在職中に江戸城に入城しなかった唯一の将軍でもある。
慶応3年(1867年)に大政奉還を行ったが、直後の王政復古の大号令に反発して慶応4年(1868年)に鳥羽伏見の戦いを起こすも惨敗して江戸に逃亡した後、東征軍に降伏して謹慎。
後事を託した勝海舟が東征軍参謀西郷隆盛と会談して江戸城開城を行なった。
維新後は宗家を継いだ徳川家達公爵の戸籍に入っている無爵華族として静岡県、ついで東京府で暮らしていたが、明治35年(1902年)に宗家から独立して徳川慶喜家を起こし、宗家と別に公爵に叙されたことで貴族院公爵議員に列した。
明治43年(1910年)に息子慶久に公爵位を譲って隠居した後、大正2年(1913年)11月22日に死去。

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徳川慶喜が亡くなってから、110年と117日が経過しました。(40295日)