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児玉源太郎(こだまげんたろう)

武士陸軍大将、子爵[日本]

1906年 7月23日 死去脳溢血享年55歳

児玉源太郎 - ウィキペディアより引用

『兒玉源太郎』より : 児玉 源太郎(こだま げんたろう、嘉永5年閏2月25日(1852年4月14日) - 明治39年(1906年)7月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。
階級位階勲等功級爵位は陸軍大将正二位勲一等功一級子爵。
日露戦争において満州軍総参謀長を勤め、勝利に貢献した。
生涯・人物 嘉永5年(1852年)、周防国都濃郡徳山村(現・山口県周南市)に、長州藩の支藩徳山藩の中級武士(百石)児玉半九郎忠硯の長男として生まれる。
父とは5歳で死別し、姉である久子の婿で家督を継いだ児玉次郎彦に養育された。
しかし、源太郎が13歳のときこの義兄は佐幕派のテロにより惨殺され、家禄を失った一家は困窮した。
明治元年(1868年)に初陣。
下士官として箱館戦争に参加した後、陸軍に入隊する。
明治7年(1874年)の佐賀の乱には大尉として従軍し戦傷を受けている。
熊本鎮台准参謀時の明治9年(1876年)には神風連の乱を鎮圧。
同鎮台参謀副長(少佐)時の明治10年(1877年)には西南戦争の熊本城籠城戦に参加。
鎮台司令長官の谷干城少将を良く補佐し、薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を護りきる。

1852(嘉永5)〜1906(明治39) 明治時代の陸軍軍人(大将) 徳山藩士児玉半九郎忠碩の長男。戊辰戦争に藩の献功隊士として参加。のち陸軍に入り、佐賀の乱・神風連の乱・西南戦争に従軍して頭角をあらわした。 1887(M20)陸大校長としてドイツの軍制・戦術の移入紹介につとめ、91ヨーロッパ視察。 92〜98陸軍次官兼軍務局長、日清戦争で大本営参謀、功により男爵。96中将に昇進し、長州軍閥の1人として重きをなした。 98台湾総督。1900第4次伊藤内閣・桂内閣で陸相、一時内相と文相を兼任。 04大将に累進して日露戦争に出征し、満州軍総参謀長、戦功により子爵。06参謀総長に就任。南満州鉄道株式会社創立委員長。没後、伯爵。 <コンサイス日本人名事典> (引用元 Hatena Keyword)