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倉田百三(くらたひゃくぞう)

作家[日本]

1943年 2月12日 死去享年83歳

倉田百三 - ウィキペディアより引用

倉田 百三(くらた ひゃくぞう、1891年(明治24年)2月23日 - 1943年(昭和18年)2月12日)は、大正、昭和初期に活躍した日本の劇作家、評論家。
広島県庄原市には、倉田百三文学館がある(所在地:庄原市 西本町二丁目20-10)。
来歴・人物 広島県比婆郡庄原村107番屋敷(現庄原市本町)出身。
父・倉田吾作、母・倉田ルイ。
1891年(明治24年)2月23日、呉服商の長男として生まれる。
姉4人、妹2人の中で男児は百三ただ一人であった。
1896年(明治29年)、庄原尋常小学校入学。
1901年(明治34年)、庄原高等小学校へ進学。
1904年(明治37年)、広島県立三次中学校(現広島県立三次高等学校)入学、卒業。
母方の叔母シズが嫁していた三次町の宗藤襄次郎家に寄寓、ここから通学した。
宗藤家は浄土真宗の熱心な信徒であり、この地方の真宗在家集団の有力者でもあった。
百三はシズの強い影響を受けて『歎異抄』を繰り返し読み、これに惹かれていった。
生涯の友となる、歌人中村憲吉の弟である香川三之助と出会う。
また、執筆活動も行っており三次中学校友会雑誌『巴峡』、回覧雑誌『白帆』などに寄稿している。

倉田百三は明治24年(1891年)、今の庄原市(当時の三上郡庄原村)の呉服商の長男として生まれました。文学に人一倍興味の強かった百三は、県立三次中学校に進むと同窓の歌人・中村憲吉と親交、『白帆会』という文芸部を作り回覧雑誌を発行していました。  やがて哲学を志すようになり、家業を継がせようとする父を「哲学することは人生いかに生くべきかを追求することです」と説得して東京の第一高等学校に入学します。哲学者・西田幾多郎の『善の研究』に感銘を受け、ますます哲学に傾倒していった頃に結核が発病、やむなく一高を退学しました。  病気、退学、失恋を一時に身にうけた百三は、四季を通じて今なお美しいふるさとの山の湖・上野池でその痛手をいやしました。その後『愛と認識との出発』『青春の息の痕』などを発表、序曲『死ぬるもの』からはじまる戯曲『出家とその弟子』は百三が26歳の時に書きあげました。その後、転地と療養を繰り返す生活のなかで数多くの作品を世に送り出し、昭和18(1943)年52歳で没しました。 (引用元 Hatena Keyword)