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北条時宗(ほうじょうときむね)

武将、鎌倉幕府第8代執権[日本]

(二度にわたる元寇を退ける、弘安7年4月4日没)

(ユリウス暦) 1284年 4月20日 死去享年34歳

北条時宗 - ウィキペディアより引用

北条 時宗(ほうじょう ときむね、1251年6月5日~1284年4月20日)は、鎌倉時代中期の武将・政治家。
鎌倉幕府第8代執権。
鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家に生まれ、世界帝国であったモンゴル帝国(大元朝)の日本に対する圧力が高まるなかで執権に就任。
内政にあっては得宗権力の強化を図る一方、モンゴル帝国(大元朝)の2度にわたる侵攻を退け(元寇)、後世には日本の国難を救った英雄とも評される。
官位は、正五位下相模守。
贈従一位。
生涯 出生から執権就任まで 建長3年(1251年)5月15日、相模国鎌倉、安達氏の甘縄邸に生まれる。
長兄に宝寿丸(のちの北条時輔)がいたが彼は側室の子(庶子)であったため、正寿が後継者に指名された。
康元2年(1257年)、まだ7歳という年齢でありながら、将軍御所にて征夷大将軍・宗尊親王の加冠により元服、親王より偏諱(「宗」の1字)を賜り、相模太郎時宗(ときむね)と名乗る(この時、後に義兄となる安達泰盛が烏帽子を運ぶ役目を務めたという)。

ほうじょうときむね [生]建長3(1251).5.15.鎌倉[没]弘安7(1284).4.4.鎌倉鎌倉幕府の8代執権(在職1268~84)。時頼の3男。母は北条重時の娘。幼名は正寿。元服して相模太郎と称した。左馬権頭,但馬権守を経て相模守,正五位下,文永1(64)年連署,同5年執権。この年以降しばしば訪れた元の使者を退け,ついに来襲した元,高麗の連合軍を再度にわたって撃退,進んで出征を企てるなど強硬な態度で終始した。また評定制度を無視して得宗専制政治への道を開き,朝廷内の皇位争いに介入して両統迭立の端緒を開くなど,積極的な政治を行なった。第3回の元軍来襲に備えて国防に専念したが,病にかかり出家し法名を道杲と称した。早くから禅を信じ,宋から無学祖元を招き,弘安5(82)年円覚寺を創建して無学祖元を開山とした。 (引用元 コトバンク)