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今川義元(いまがわよしもと)

戦国大名[日本]

(永禄3年5月19日没)

(ユリウス暦) 1560年 6月12日 死去討死享年42歳

今川義元 - ウィキペディアより引用

今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代の武将、駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。
今川氏第11代当主。
婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。
海道一の弓取りの異名を持つ。
寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。
所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。
生涯 内乱と家督相続 永正16年(1519年)、今川氏親の五男として生まれる。
母は父の正室である中御門宣胤の娘(寿桂尼)。
生まれた時は既に跡継ぎとして、同母兄の氏輝がいたために4歳で仏門に出され、臨済宗の駿河国富士郡瀬古の善徳寺に預けられて栴岳承芳(せんがくしょうほう)と称し、教育係を務めた今川家重臣出身の僧・太原雪斎と共に京都に上り、五山に学ぶ等、学識を深めた。

いまがわよしもと [生]永正16(1519)[没]永禄3(1560).5.19.尾張,田楽狭間戦国大名。駿河,遠江守護。室町幕府創業以来の功臣として,東海地方に重きをなした名門今川氏の嫡流氏親の第3子。母は大納言中御門宣胤の娘。初め出家して雪斎につき,富士郡善徳寺黙然和尚の弟子となる。天文5(1536)年長兄氏輝の死後,継嗣問題で争い,次兄僧恵深(志太郡遍照光院住職)を敗死させ,還俗して家督を継いだ。従四位下,治部大輔,駿河守に進み,老臣雪斎(太原崇孚)を重用して遠江,三河の制圧からさらに西方への進出に力を入れた。同11年三河に侵入した尾張の織田信秀の軍を小豆坂に破り,同18年には三河岡崎の松平氏を助け,安祥城を攻略して織田信広を捕虜とし,先に織田氏の人質となっていた松平竹千代(のちの徳川家康)と交換して一時竹千代を岡崎に帰したが,翌年には今川氏の人質として駿府にとり,三河を勢力下においた尾張の織田方と交戦を続けた。同22年,三河侵攻のすきに駿河を北条氏康に侵されたが,これには義元と姻戚関係にあった武田信玄があたった。次いで義元,信玄,氏康の3者は善徳寺に会盟して和睦し,互いに姻戚関係を結んだ。ここに義元は東方の憂いを除き,以後は尾張への進出をはかることになった。雪斎の死後,弘治2(56)年,義元は織田氏の策謀によって賢臣の日下部政直を殺害したのち,永禄3(60)年上洛を目指して大軍を率い尾張に進入し,沓掛,丸根,鷲津の諸砦を攻め落したが,5月桶狭間近くの田楽狭間で織田信長に急襲され,軍勢混乱のなかで信長の臣服部小平太,毛利秀高に打取られた(→桶狭間の戦い)。その後今川氏は急速に衰えてい …… (引用元 コトバンク)