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朝倉義景(あさくらよしかげ)

戦国大名[日本]

(天正元年8月20日没)

(ユリウス暦) 1573年 9月16日 死去自刃享年41歳

朝倉義景 - ウィキペディアより引用

朝倉 義景(あさくら よしかげ) は、戦国時代の武将。
越前国の戦国大名。
越前朝倉氏第11代(最後)の当主。
生涯 家督相続と前半生 天文2年(1533年)9月24日、越前国の戦国大名で朝倉氏の第10代当主である朝倉孝景の長男として生まれる。
生母は広徳院(光徳院)といわれ、若狭武田氏の一族の娘で武田元信か武田元光の娘とされる。
このとき、父の孝景は40歳であり、唯一の実子であったとされる(しかし出生については異説がある)。
幼名は長夜叉と称した。
義景の幼少期に関しては不明な点が多く、守役や乳母に関しては一切が不明で、伝わる逸話もほとんど無い。
天文17年(1548年)3月、父の孝景が死去したため家督を相続して第11代当主となり、延景と名乗る。
9月9日には京都に対して代替わりの挨拶を行なっている(『御湯殿上日記』)。
当初は若年のため、弘治元年(1555年)までは、一族の名将・朝倉宗滴(教景)に政務・軍事を補佐されていた。
天文21年(1552年)6月16日、室町幕府の第13代将軍・足利義輝(当時は義藤)より「義」の字を与えられ、義景と改名する。

あさくらよしかげ [生]天文2(1533).越前[没]天正1(1573).8.20.越前戦国大名。孝景の子。初め孫次郎延景と称し,天文21(1552)年将軍足利義輝の偏諱を得て義景。同17年父の死により跡を継ぎ一乗谷城主。加賀,能登,越前の一向一揆と戦ったが,義輝の命によりこれと和し越前を平定。永禄9(66)年,彼を頼った足利義昭を迎えることができなかったことから,以後織田信長を頼った義昭と対立。義昭は同11年上洛,将軍職についたが,義景は信長とも対立し,元亀1(70)年には浅井氏と連合して,姉川で織田,徳川連合軍と戦ったが大敗を喫し(→姉川の戦い),さらに天正1(73)年,信長の攻撃を受け,居城一乗谷に火を放ち,越前大野で自刃。義景は歌を二条浄光院に学び,また京風文化を一乗谷に移し,ここを小京都たらしめた。 (引用元 コトバンク)