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豊臣秀次(とよとみひでつぐ)

戦国大名、関白[日本]

(文禄4年7月15日没)

1595年 8月20日 死去切腹享年28歳

豊臣秀次 - ウィキペディアより引用

豊臣 秀次(とよとみ ひでつぐ) / 羽柴 秀次(はしば ひでつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。
豊臣氏の2代目関白。
豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男。
幼少時、戦国大名浅井長政の家臣宮部継潤が秀吉の調略に応じる際に人質となり、そのまま養子となって、初名は吉継、通称を次兵衛尉とし、宮部 吉継(みやべ よしつぐ)と名乗った。
次いで畿内の有力勢力だった三好一族の三好康長(笑岩)の養嗣子となり、今度は名を信吉と改めて通称は孫七郎とし、三好 信吉(みよし よしのぶ)と名乗って三好家の名跡を継いだ。
秀吉が天下人になると、羽柴姓に復氏して、名も秀次と改名。
豊臣姓も下賜された。
鶴松が没して世継ぎがいなくなったことから、改めて秀吉の養嗣子とされ、文禄の役の開始前に関白の職を譲られ、家督を相続した。
ところがその後になって秀吉に嫡子秀頼が誕生して、理由は諸説あるものの、秀次は強制的に出家させられて高野山青巌寺に蟄居となった後に切腹となった。
秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に眷族も尽く処刑された。
生涯 生い立ち 永禄11年(1568年)、秀吉の同母姉・とも(瑞竜院日秀)と弥助(後の三好吉房)夫婦の長男として尾張知多郡大高村で生まれた。

三好吉房と豊臣秀吉の姉ともの長男。叔父豊臣秀吉の養子。関白左大臣。 一時、三好康長の養子となり三好孫七郎信吉と名乗っている。 急激な出世を遂げた秀吉の一族として早くから引き立てを受け、天正十一年(1583)伊勢の滝川一益攻略では一軍の将を任され、さらに翌年の小牧・長久手の戦いでも別働隊の大将を務めるが大敗し、秀吉から叱責を受けている。 しかしその後も一軍の将として、天正十三年(1585)の紀州攻め・四国攻めに活躍。叔父豊臣秀長とともに数少ない豊臣一門として秀吉を支えている。秀吉もそれに報いるかたちで所領を加増し、四国平定後には近江八幡城主、天下統一後には尾張清洲城主となる。 さらに、天正十九年(1591)秀吉の実子鶴松が夭逝すると、秀吉の養子とされ、関白職と聚楽第を譲られた。ところが文禄二年(1593)に豊臣秀頼が誕生すると、秀吉との関係は微妙なものとなり、最後は謀反の嫌疑をかけられ、高野山にて自害に追い込まれた。 また、妻子はことごとく三条河原で処刑され、聚楽第も徹底的に破却された。 (引用元 Hatena Keyword)