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東郷茂徳 氏(とうごうしげのり)

外交官[日本]

1950年 7月23日 死去享年69歳

東郷茂徳 - ウィキペディアより引用

東郷 茂徳(とうごう しげのり、旧字体: 東鄕茂德、生名:朴茂德、1882年(明治15年)12月10日 - 1950年(昭和25年)7月23日)は日本の外交官、政治家。
太平洋戦争開戦時及び終戦時の日本の外務大臣。
鹿児島県日置郡にあった、朝鮮人陶工の子孫で形成された集落「苗代川村」(現・日置市東市来町美山)の出身である。
欧亜局長や駐ドイツ大使及び駐ソ連大使を歴任、東條内閣で外務大臣兼拓務大臣として入閣して日米交渉にあたるが、日米開戦を回避できなかった。
鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣として入閣、終戦工作に尽力した。
にもかかわらず戦後、開戦時の外相だったがために戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没した。
東郷は剛直で責任感が強く、平和主義者である一方で現実的な視野を併せ持った合理主義者だったが、正念場において内外情勢の急転に巻き込まれて苦慮するケースが多かったと言える 生い立ち 萩原延壽『東郷茂徳 伝記と解説』によれば、東郷茂徳は1882年12月10日に、「朴茂徳」として鹿児島県日置郡苗代川村で生まれた。

とうごうしげのり [生]1882.12.10.鹿児島[没]1950.7.23.東京外交官。太平洋戦争開戦時と終戦時の外務大臣。1908年東京帝国大学卒業。1912年外務省に入る。駐ドイツ,駐ソビエト連邦大使を経て,1941年東条内閣の外相となる。日米交渉において太平洋戦争の開戦回避に尽力したが,結局開戦の責任者となった。1945年鈴木内閣で再び外相となり,終戦工作に挺身。戦後A級戦犯に問われたが,信念をもって戦争前後の行動の正当性を主張した。禁錮20年の判決を受け,服役中に死去。 (引用元 コトバンク)