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清水宗治(しみずむねはる)

戦国武将[日本]

(天正10年6月4日没)

(グレゴリオ暦) 1582年 7月3日 死去切腹享年46歳

清水宗治 - ウィキペディアより引用

清水 宗治(しみず むねはる、天文6年(1537年) - 天正10年6月4日(1582年6月23日))は、戦国時代の武将。
備中高松城主。
通称は長左衛門。
三村氏、毛利氏に仕えた。
清水宗則の子。
三村氏の有力配下・石川久智の娘婿となり、子供に宗之、景治、兄に宗知(月清入道)がいる。
生涯 天文6年(1537年)、備中国賀陽郡清水村(現在の岡山県総社市井手)に生まれる(誕生月日は不詳)。
幼名は才太郎といった。
備中国の一豪族の家臣の身分で備中清水城の城主を務め、のちに備中高松城の城主となる。
この経緯については諸説あるが、一般的には天正の備中兵乱の際、三村氏譜代・石川氏の娘婿・重臣の立場にでありながら毛利氏に加担し、高松城主の地位を得たとされる。
この備中兵乱は文字通り備中一円を舞台とした三村氏対毛利氏の一大戦で、三村氏家臣の立場でありながら毛利方についた者は他にもおり、状況判断の問題であった(三村親成など三村姓を名乗る三村一門でさえ、毛利方についた者がいる)。

しみずむねはる [生]天文6(1537)[没]天正10(1582).6.4.備中,高松戦国時代の武将。出自は未詳。字は長左衛門。初め備中清水城主であったが,長谷川掃部を殺して同国高松城主となり,小早川隆景に属した。天正5(1577)年豊臣秀吉の中国征伐が始り,同10年岡山まで進攻した秀吉から織田方につくようすすめられたが応じなかったため,秀吉得意の戦法である水攻めにあった。同年6月本能寺の変の報に接した秀吉が毛利氏と親しい安国寺恵瓊をつかわし,宗治の自害を条件に毛利氏との講和を進めたため,兄月清入道とともに自刃した。 (引用元 コトバンク)

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