芸能人・経営者のおくやみ情報

児島惟謙

裁判官[日本]

1908年 7月1日 死去享年72歳

児島惟謙 - ウィキペディアより引用

児島 惟謙(こじま いけん、天保8年2月1日(1837年3月7日) - 1908年(明治41年)7月1日)は、明治時代の司法官。
後述する大津事件の際には、大審院長として司法権の政治部門からの独立を守り抜き、「護法の神様」などと高く評価された。
後に貴族院議員、衆議院議員、錦鶏間祗候。
幼名は雅次郎、長じて五郎兵衛、あるいは謙蔵とも称した。
「児島惟謙」は後述する脱藩を機に用い始めた仮の名で、児島はこれを終生用いた。
名前は「これかた」以外にも「いけん」、「これかね」などとも呼ばれる。
号は天赦、字は有終。
天保8年(1837年)に伊予国宇和島城下で宇和島藩士の金子惟彬(豊後佐伯氏の一族)の次男として出生したが、幼くして生母と生別したり、里子に出されたり、造酒屋で奉公したりと、安楽とはいえない幼少期を送った。
少年期、窪田清音から免許皆伝を認められた窪田派田宮流剣術師範・田都味嘉門の道場へ入門、大阪財界の大立役者となる土居通夫と剣術修業に励む。

日本のひとりの巡査が、日本を訪れていたロシアの皇太子、ニコライを襲い傷つけた事件当時の大審院判事。法に照らしてこの巡査を、軍部が主張していた死刑ではなく無期懲役に処した。この措置は、日本が法治国家であるとお欧米に知らしめた。 (引用元 Hatena Keyword)