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後藤象二郎(ごとうしょうじろう)

土佐藩士政治家、伯爵[日本]

1897年 8月4日 死去享年60歳

後藤象二郎 - ウィキペディアより引用

後藤 象二郎(ごとう しょうじろう、天保9年3月19日(1838年4月13日) - 明治30年(1897年)8月4日)は、日本の幕末から明治時代の武士(土佐藩士)、政治家、実業家。
栄典は正二位勲一等伯爵。
土佐三伯の1人(他に板垣退助・佐々木高行)。
幼名は保弥太、良輔。
象二郎は通称。
諱は正本(まさもと)、後に元曄(もとはる)。
字は日曄、暢谷、雲濤、不倒翁など。
雅号に暘谷、雲濤、光海、鷗公など。
生涯 生い立ち 土佐藩士・後藤正晴(馬廻格・150石)の長男として高知城下片町に生まれる。
少年期に父を失い義理の叔父・吉田東洋に預けられて育ち、東洋が開いた少林塾に学ぶ。
また柳河藩士の大石種昌に大石神影流剣術を学び文武の業を修めた。
幕末 安政5年(1858年)、東洋の推挙によって幡多郡奉行となる。
万延元年(1860年)9月、土佐藩の大坂藩邸建築のための普請奉行を仰せ付けられる。
文久元年(1861年)に御近習目付となるが、翌2年(1862年)に東洋が暗殺されると任を解かれた。

天保9年3月19日高知城下にて上士・馬廻格の後藤助右衛門の長男として生まれる。  土佐藩の公武合体派の急先鋒として、武市瑞山を党首とする土佐勤王党を実質解散に追い込み、武市らを切腹させたが、意見を変え、長崎で坂本龍馬との会談を行い、前藩主山内容堂に対し将軍徳川慶喜に大政奉還させるよう進言する。この進言後、脱藩罪に問われていた龍馬が特赦されたのも後藤の働きによると言われている。  明治に入り、参与、大阪府知事などに就任するが、明治6年(1873年)に板垣・ 西郷らと共に征韓論論争に敗れ、公職を離れ、翌年板垣退助、江藤新平、副島種臣らと愛国公党を組織し、 民選議院設立を申し立る。明治14年(1881年)に板垣退助とともに自由党を設立した。 (引用元 Hatena Keyword)