芸能人・経営者のおくやみ情報

長谷川良平 氏

プロ野球選手、元広島監督[日本]

2006年 7月29日 死去肺炎享年76歳

長谷川良平 - ウィキペディアより引用

長谷川 良平(はせがわ りょうへい、1930年3月25日 - 2006年7月29日)は、愛知県半田市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。
黎明期の広島カープを代表する投手であり、身長167cmという野球選手としては小柄な体格から、小さな大投手の異名を取った。
現役時代 愛知県半田商工学校卒業後、安田商店(福井県)・安田繊維・新田建設・第一繊維など4つのノンプロチームでプレーする。
1949年年末に設立された広島カープの監督・石本秀一が選手集めをしていたところへ、広島への入団が決まっていた内藤幸三が新田建設時代の監督・横沢七郎経由で聞いた長谷川の噂を石本へ伝えたところ、1950年正月に長谷川は広島の入団テストを受けることになる。
長谷川は石本の見守る中シートバッティングの投手を務めるが、得意のシュートを連投して何人かのベテラン選手のバットをへし折り、入団が決まった。
1月21日に入団契約し契約金は30万円、月給は25,000円であった。
開幕から6連敗ののち、4月27日の対西日本戦で初勝利を挙げると、5月14日と17日の西日本戦で立て続けに勝ち、特に17日は初完封を記録したこともあって、「パイレーツ殺し」と呼ばれた。

プロ野球選手・指導者・解説者。 通称「小さな大投手」。 右投右打、ポジションは投手。背番号は32→18番。 1930年3月25日生まれ。愛知県出身。 半田商工から新田建設を経て、1950年、広島カープ創立と共に入団。 1年目にいきなり15勝を挙げると、8年連続で2桁勝利。 解散の危機を背負い、カープが上位争い出来なかった時代に「小さな大投手」として活躍。 長谷部稔とのバッテリーで、シュートを武器に、1950年代を代表するカープのエースとして君臨した。 1951年、名古屋ドラゴンズ移籍を巡り、史上初のコミッショナー裁定に持ち込まれる。*1 1952年、シーズン直前に再度移籍を希望。最終的には残留で落ち着いた。*2 1955年、30勝を挙げ最多勝に輝く。 1956年、「代打、わし」と審判に告げた藤村富美男にサヨナラ満塁本塁打を打たれる。 1963年、通算197勝を挙げ、現役引退。同年より投手コーチに就任。 1965年7月から、白石勝巳の後を受けて広島カープの監督の就任。 1967年まで務めた。 1968年、中日ドラゴンズの投手コーチに就任。 1972年、RCC中国放送の野球解説者となる。 1973年から2シーズン、広島東洋カープ投手コーチとして現場復帰。 退団後はRCCの野球解説者に復帰。広島市内に在住。 また、広島東洋カープOB会長を務める。 2001年、野球殿堂入り。 2006年7月29日、肺炎のため広島市内の病院で逝去。 *1:長谷川への統一契約書が規定の12月15日までに届かなかったことから球界を巻き込んだ騒動へと発展する。契約書の印刷が遅れてしまったためであったが、そのことを知ったドラゴンズは獲得へ …… (引用元 Hatena Keyword)