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田中清玄 氏

フィクサー[日本]

1993年 12月10日 死去脳梗塞享年88歳

田中清玄 - ウィキペディアより引用

田中 清玄(たなか きよはる、明治39年(1906年)3月5日 - 平成5年(1993年)12月10日)は日本の実業家、政治活動家、CIA協力者、フィクサーともいわれる。
「せいげん」とも通称された。
戦前期の非合法時代の日本共産党(第二次共産党)中央委員長。
転向後は政治活動家となり、戦後は実業家として三幸建設社長、光祥建設株式会社社長をつとめる。
ロイズ保険の会員でもあり、日本人でロイズの会員になれたのは、田中清玄と南方哲也(元長崎県立大教授。
南方熊楠の大甥)のみと言われている。
モンペルラン・ソサイエティー会員。
1993年12月10日、脳梗塞で死去。
生涯 少年期 1906年3月5日、北海道亀田郡七飯村(現七飯町)で出生。
清玄は後年も会津の血を引いていることを誇りにしていた。
1919年4月、旧制函館中学に入学。
亀井勝一郎 や今日出海や大野一雄とは同級生だった。
上級生には「丹下左膳」を書いた長谷川海太郎やその弟の長谷川四郎、海太郎の従兄弟の久生十蘭がいた。
1924年4月、旧制弘前高校入学。
翌1925年、小樽高商軍事教練を廃止をめぐる小樽高商軍教事件が起きた。

たなかきよはる [生]1906.3.5.北海道[没]1993.12.10.静岡実業家,フィクサー。東京大学文学部に入学した翌年,日本共産党に入党する。1929年大学を中退し,30年日共中央執行委員長に就任。武装闘争を指導して逮捕されるが,母が自害したことを獄中で知り,転向を表明する。41年出獄後は反共主義者となり,造船業の神中組を創設,土木請負業にも進出した。第2次世界大戦後は,連合国総司令部GHQに協力して王子製紙争議などに介入,反共活動を展開する一方,安保闘争の際は全学連に資金援助して話題となる。後年はエネルギー問題に関心をもち,インドネシアやサウジアラビアの石油の開発と輸入に力を注いだ。80年外交ルートを通さず鄧小平と会見。以後,日中・ASEAN諸国との連帯を説き続けた。 (引用元 コトバンク)