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一糸文守(いっしぶんじゅ)

・臨済宗[日本]

(正保3年3月19日示寂)

1646年 5月4日 死去享年39歳

一糸文守 - ウィキペディアより引用

一糸 文守(いっし ぶんしゅ、慶長13年(1608年)- 正保3年3月19日(1646年5月4日))は、江戸時代の臨済宗の僧。
岩倉具堯の三男、母は園基継の娘。
後水尾天皇に近侍した。
諡は仏頂国師。
道号は一絲とも表記する。
寛永3年(1626年)に真言宗西明寺の賢俊良永により得度して法名を文守としたが、翌年、大徳寺の沢庵宗彭の影響により臨済宗に転宗した。
寛永6年(1628年)沢庵宗彭が紫衣事件により出羽国に配流されると、これに従ったが、翌年には一人で京に戻った。
このころより近衛信尋などの公家との交流が深まるが、後水尾上皇との交流も弟近衛信尋の仲介によるものとされる。
寛永11年(1634年)、丹波国に桐江庵(のちの法常寺)を建立し住んだが、しばしば上皇は京に呼び寄せている。
寛永15年(1638年)、上皇は京都西賀茂に霊源庵(のちの霊源寺)を建て、そこに一糸を住まわせたが、同年末には桐江庵に戻された。
そこで上皇は寛永18年(1641年)、桐江庵を法常寺とし、一糸を開山とした。
寛永20年(1643年)、当時の住持の求めに従い、近江永源寺に住し、寺の中興に力を尽くした。
その3年後、正保3年(1646年)3月19日、39歳で逝去。
没後30年目の延宝3年(1675年)、後水尾院より「定慧明光仏頂国師」の号を贈られた。

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一糸文守が亡くなってから、377年と326日が経過しました。(138025日)