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平田篤胤(ひらたあつたね)

国学者、思想家[日本]

(天保14年閏9月11日没)

1843年 11月2日 死去享年68歳

平田篤胤 - ウィキペディアより引用

平田 篤胤(ひらた あつたね、1776年10月6日(安永5年8月24日)-1843年11月2日(天保14年閏9月11日))は、江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。
出羽久保田藩(現在の秋田市)出身。
成人後備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。
幼名を正吉、通称を半兵衛。
元服してからは胤行、享和年間以降は篤胤と称した。
号は気吹舎(いぶきのや)、家號を真菅乃屋(ますげのや)。
医者としては玄琢を使う。
死後、神霊能真柱大人(かむたまのみはしらのうし)の名を白川家より贈られている。
復古神道(古道学)の大成者であり、大国隆正によって荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の中の一人として位置付けられている。
当初は、本居宣長らの後を引き継ぐ形で、儒教・仏教と習合した神道を批判したが、やがてその思想は宣長学派の実証主義から逸脱した神秘学的なものに変貌していった。
篤胤の学説は水戸学同様幕末の尊皇攘夷の支柱となった。
篤胤は独自の神学を打ち立て、国学に新たな流れをもたらした。
神や異界の存在に大きな興味を示し、死後の魂の行方と救済をその学説の中心に据えた。

国学者。通称正吉・半兵衛・大角、名は玄瑞・胤行、号は真菅屋・気吹屋等。大和田清兵衛祚胤の四男、平田藤兵衛篤穏の養子。出羽久保田生、江戸住。本居宣長・同春庭門人。国学四大人の一人。学風は文学的・考証学的要素を捨て神道的要素が強いため信仰的となり、鈴屋学統等の反感は強かったが、地方の神官・村役人層に信奉され幕末思想界に大きな影響を与えた。著書に『古史徴』『古史伝』等がある。天保14年(1843)歿、68才。 (引用元 コトバンク)