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荒畑寒村 氏(あらはたかんそん)

文芸評論家、社会主義者[日本]

1981年 3月6日 死去享年95歳

荒畑寒村 - ウィキペディアより引用

荒畑 寒村(あらはた かんそん、1887年(明治20年)8月14日 - 1981年(昭和56年)3月6日)は、日本の社会主義者・労働運動家・作家・評論家。
日本共産党と日本社会党の結党に参加するが、のち離党。
戦後1946年から1949年まで衆議院議員を務めた。
本名は勝三といった。
神奈川県横浜市永楽町の横浜遊郭内で生まれる。
幼少期を現在の横浜市港南区野庭で過ごした。
高等小学校卒後、外国人商館でボーイとして働き、キリスト教に改宗。
横須賀の海軍工廠に勤務する中で、『萬朝報』紙に堺利彦と幸徳秋水が共同で書いた反戦詩・退社の辞に感動して労働運動に参加。
秋水と堺が発行する週刊『平民新聞』の非戦論に共鳴し、社会主義に接近する。
その後、堺利彦の世話で牟婁新報での新聞記者を経て平民新聞の編集に参画。
同紙で同僚だった6歳年上の管野スガと内縁を結び、1907年に結婚した。
1908年、赤旗事件で検挙されて裁判で有罪となり、重禁錮1年。
入獄中にスガとは離婚。
女性の側から三行半をたたきつけられた格好となったので、寒村は激怒し、2年後に出獄するとピストルを入手してスガを射殺しようとするが、果たせず、代わりに桂太郎首相の暗殺を企てたといわれるが、いずれも実行できなかった。

あらはたかんそん [生]1887.8.14.神奈川[没]1981.3.6.東京社会運動家。小学校以外,正規の学校教育は受けていない。堺利彦や幸徳秋水の社会主義論に傾倒し,1904年平民社に入る。まもなく社会主義伝道行商に加わって田中正造を知り,足尾鉱毒事件を素材に,07年処女作『谷中村滅亡史』を著述。08年赤旗事件に連座して入獄した。その後管野須賀子(スガ)をめぐり幸徳秋水と対立,大逆事件後の冬の時代には売文社で堺利彦,山川均,高畠素之らと地道に体制の立直しをはかり,大正政変後の12年『近代思想』を発刊,大杉栄らとアナルコ・サンディカリズムの宣伝に努めた。その後堺利彦,山川均らとともにマルクス主義に接近,22年日本共産党の創立に参加したが,第1次共産党事件に連座,共産党解党後は福本イズムに反対して第2次共産党結成に加わらず,堺利彦,山川均らと雑誌『労農』を刊行,いわゆる労農派マルクス主義の立場を確立した。第2次世界大戦後,関東金属労働組合委員長となり,また社会党左派の国会議員として活躍したが,既成政党に絶望,脱党。一時新左翼に共鳴して学生を支援したが内ゲバに失望して手を引き孤高の文筆活動を続けた。一貫した生涯は,日本社会主義運動の良心の軌跡とされる。『寒村自伝』がある。 (引用元 コトバンク)