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平塚らいてう 氏(ひらつからいちょう)

思想家、評論家、女性開放運動指導者[日本]

1971年 5月24日 死去胆道がん享年86歳

平塚らいてう - ウィキペディアより引用

平塚 らいてう(ひらつか らいちょう、本名:平塚 明(ひらつか はる)、1886年(明治19年)2月10日 - 1971年(昭和46年)5月24日)は、日本の思想家、評論家、作家、フェミニスト、戦前と戦後に亘(わた)る女性解放運動家。
戦後は主に反戦・平和運動に参加した。
平塚は、特に、大正から昭和にかけ、婦人参政権等、女性の権利獲得に奔走した活動家の一人として知られる。
結局、その実現は、第二次世界大戦後、連合国軍の日本における占領政策実施機関GHQ主導による「日本の戦後改革」を待たざるを得なかった。
しかし、1911年(明治44年)9月、平塚25歳の時、雑誌「青鞜」発刊を祝い、自らが寄せた文章の表題『元始、女性は太陽であった』は、女性の権利獲得運動を象徴する言葉の一つとして、永く人々の記憶に残ることとなった。
なお、氏名表記は、漢字で「平塚雷鳥」と書く場合もあり、さらに「平塚明子(らいてう)」の表記で評論の俎上に上がることもある。
また、1908年(明治41年)3月、平塚22歳の時、塩原で、森田草平と心中未遂事件(塩原事件)を起こし、自らの名が広く知られると、本名奥村明の「明」を用い「平塚 明(はる)」の名で活動するなど、時期によっても平塚の氏名表記は異なる。

ひらつからいちょう [生]1886.2.10.東京[没]1971.5.24.東京大正・昭和期の評論家,婦人運動家。本名奥村明(はる)。筆名は雷鳥をかな書きしたもの。1906年日本女子大学校(→日本女子大学)卒業。文学講座を通じて知り合った作家の森田草平と心中未遂事件を起こし,物議をかもした。スウェーデンの婦人運動家エレン・ケイの思想と禅の影響を強く受け,1911年青鞜社をつくり,日本で初めての婦人雑誌『青鞜』(1911~16)を刊行,恋愛と結婚の自由を説き,婦人解放への道を開いた。また1920年には,婦人の政治的自由を要求する団体,新婦人協会を市川房枝らと発足させた。(→婦人運動) (引用元 コトバンク)