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中島敦(なかじまあつし)

作家[日本]

1942年 12月4日 死去気管支喘息享年34歳

中島敦 - ウィキペディアより引用

中島 敦(なかじま あつし、1909年(明治42年)5月5日 - 1942年(昭和17年)12月4日)は、日本の小説家。
中島家は代々、日本橋新乗物町(現在の東京都中央区日本橋堀留町)で駕籠を製造販売する商家であった。
敦の祖父・中島慶太郎(号を撫山)は家業を嫌い、漢学者・亀田鵬斎の子・稜瀬の門下となり、稜瀬没後は稜瀬の養子・鶯谷に師事した。
後に埼玉県南埼玉郡久喜町(現久喜市)に漢学塾「幸魂教舎」を開き、『斗南先生』のモデルとなった伯父・中島端蔵(戸籍謄本上は長男と記載されているが撫山には先妻との間に子があり、実際は撫山の次男)が祖父の漢学塾を受け継いでいた。
他に中島竦・中島若之助・中島開蔵・中島比多木などの伯父・叔父がおり、みな漢学を修めて世に出ている。
父・中島田人(撫山の六男。
戸籍上は五男)は1889年、文部省教員検定試験の漢学科に合格し、銚子中学校(旧制中学)で漢文の教員をしていた。
生母・チよは、旗本の家柄で警察官をしていた岡崎勝太郎の一人娘で、小学校教員も一時していたとされる。

なかじまあつし [生]1909.5.5.東京[没]1942.12.4.東京小説家。漢学,中国文学に造詣の深い儒学の家に生れ,1933年東京大学国文学科卒業。『中央公論』の公募に応じた『虎狩』(1934)や,代表作『山月記』を含む『古譚』(42),『光と風と夢』(42)で作家としての地位を確立。パラオ南洋庁書記の職を辞して作家生活に入ろうとしたが,持病の喘息のために夭折した。没後,『李陵』(43)ほか『弟子』『名人伝』などが相次いで発表され,非凡な才能が高く評価された。 (引用元 コトバンク)

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