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教如

浄土真宗侶、東本願寺第12代法主[日本]

(慶長19年10月5日入滅)

1614年 11月6日 死去享年57歳

教如 - ウィキペディアより引用

教如(きょうにょ、敎如)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての浄土真宗の僧。
東本願寺第12代法主 。
生涯 年齢は、数え年。
日付は文献との整合を保つため、いずれも旧暦(宣明暦)表示を用いる(生歿年月日を除く)。
誕生 永禄元年9月16日(1558年10月27日)、顕如の長男として誕生。
永禄13年(1570年)2月、父・顕如のもと13歳で得度。
石山合戦 元亀元年9月12日(1570年10月11日)、織田信長との間で石山合戦が始まる。
父・顕如を助けて信長と徹底抗戦する。
元亀2年(1571年)6月、朝倉義景の娘である三位殿と婚約。
天正8年(1580年)3月、顕如は正親町天皇の勅使・近衛前久の仲介による講和を受け入れ、石山本願寺から紀伊国鷺森(和歌山県和歌山市)へ退去する。
しかし教如は徹底抗戦を主張する。
そのため顕如は、教如を義絶する。
義絶後も石山本願寺に籠城する(大坂拘様)。
8月2日、近衛前久の説得に応じ、信長に石山本願寺を明け渡す。
その直後に、石山本願寺は失火により炎上し灰燼に帰した。

1558年10月27日〜1614年11月6日 日本の安土桃山時代から江戸時代にかけての浄土真宗の僧。本願寺十一代の顕如の長男。 本願寺十二代だったが、文禄2年(1593年)に豊臣秀吉の命により一旦退隠させられた。その後、 慶長7年(1602年に徳川家康より烏丸六条に寺地を寄進され本願寺を分立して復職した。本願寺は教如の真宗大谷派と弟の准如が継承した七条堀川の本願寺(いわゆる西本願寺)の浄土真宗本願寺派に分裂した。なお、彼が建てた本願寺は現在の真宗本廟である。 (引用元 Hatena Keyword)