芸能人・経営者のおくやみ情報

高橋由一(たかはしゆいち)

画家[日本]

1894年 7月6日 死去享年67歳

高橋由一 - ウィキペディアより引用

高橋 由一(たかはし ゆいち、文政11年2月5日(1828年3月20日) - 明治27年(1894年)7月6日)は江戸生まれの日本の洋画家。
幼名は猪之助、のち佁之介。
名は浩、字は剛。
明治維新後に由一を名乗る。
号は藍川、華陰逸人。
居庵号は、石蒼波舎、伝神楼。
近世にも洋画や洋風画を試みた日本人画家は数多くいたが、由一は本格的な油絵技法を習得し江戸後末期から明治中頃まで活躍した、日本で最初の「洋画家」といわれる。
生い立ち 佐野藩(佐倉堀田藩の支藩)士高橋源十郎の嫡子として、江戸大手門前の藩邸で生まれる。
家は代々新陰流免許皆伝で、藩内で剣術師範を勤めた。
この頃婿養子だった父は母と離縁し、由一は祖父母と母に育てられる。
天保7年(1836年)藩主堀田正衡の近習を務め、のち近習長となり図画取扱を兼務したという。
わずか数え2歳で絵筆を取って人面を描き、母たちを驚かせたという。
12,3歳頃から堀田家に出入りしていた狩野洞庭、ついで狩野探玉斎という絵師に狩野派を学ぶ。
しかし、当時は祖父について家業の剣術指南役を継ぐための剣術修行と藩務に忙しく、絵画修業は休みがちになってしまったため、探玉斎の門を退き以後独学で画を学ぶ。

たかはしゆいち [生]文政11(1828).2.5.江戸[没]1894.7.6.東京明治初期の代表的洋画家。佐野藩下級藩士の出身。幼名は猪之助,のち由一。生来病弱で画家への道を選び,狩野派を学んで藍川と号した。その後,洋製石版画に接して洋画への情熱を燃やし,文久2(1862)年,蕃所調所画学局に入り川上冬崖に師事。さらに横浜でC.ワーグマンに実技を学び,本格的な油彩画の技法と理論を身につけ,鮭や豆腐など身近な物を,写実主義に徹した画風で描いた。1873年日本橋に画塾天絵楼を創立して明治画壇の俊才を育成。76年A.フォンタネージと出会い西洋画法を学んだ。78年浅井忠,小山正太郎らと十一字会を結成。80年日本最初の美術雑誌『臥遊席珍』を発行。晩年は穏健な風景画,肖像画を多く制作した。主要作品『花魁(おいらん)』(72頃,東京芸術大学,重文),『鮭』(77頃,同,重文),『豆腐と油揚』(77頃,金刀比羅宮),『不忍池』(94頃)。 (引用元 コトバンク)