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一山一寧

元の禅[元]

(建長寺・南禅寺などの住職となる、文保元年10月24日没)

(ユリウス暦) 1317年 11月28日 死去享年歳

一山一寧 - ウィキペディアより引用

一山一寧(いっさんいちねい、宝治元年(南宋の淳祐7年、1247年) - 文保元年10月24日(1317年11月28日))は元の渡来僧。
寧一山ともいう。
台州臨海県(現在の浙江省台州市臨海市)の出身。
姓は胡氏。
幼くして出家し、律、天台宗を学んだ後、臨済宗に転じ、天童山や浄慈寺などで修行を積み、阿育王寺の頑極行弥の法を嗣いだ。
その後、環渓惟一らに参禅を続け、諸所を遊方した。
二度の日本遠征(元寇)に失敗した元の世祖クビライは再遠征の機会をうかがうと共に、交渉によって平和裏に日本を従属国とするべく使者を派遣した。
当時の日本は臨済禅の興隆期にあり禅僧を尊ぶ気風があったため、補陀落山観音寺の住職であった愚渓が使者に選ばれた。
弘安5年(元の至元19年、1282年)の最初の渡航は悪天候によって阻まれ、弘安7年(至元21年、1284年)には対馬まで辿り着くが、日本行きを拒む船員等の騒乱によって正使王積翁が殺害され中止された。

  • 題名
    日本書史
    著者
    石川九楊
    発売元
    名古屋大学出版会
    発売日
    2001-09-30
    新品価格
    ¥ 16,200 より
    中古商品
    ¥ 7,449 より

いっさんいちねいYi-shanYi-ning [生]淳祐7(1247)[没]文保1(1317).10.25.京都中国,宋の臨済宗の僧。台州臨海県の人。鴻福寺に入り,無等慧融に2年侍し,次いで普光寺処謙につき『法華経』を,応真寺で律を,延慶寺で天台を学んだ。義解の学を嫌い,天童山筒翁敬禅師に参禅を許され,育王山に登って蔵叟善珍,寂窓有照,頑極行弥(がんぎょくぎょうみ)らに禅を学び,頑極の法を継いだ。至元21(1284)年,四明祖印寺に住んでいたが,10年後,補陀山観音寺に移り,住持となる。元は文永弘安の役の失敗にかんがみ,平和交渉で日本に服属を促すため,一山を江浙釈教総統に任じ,妙慈弘済大師の号を与え,石梁,仁恭,西かん子曇らとともに,正安1(99)年日本に送った。執権北条貞時は,彼を間諜の疑いで捕えて伊豆の修禅寺に禁錮したが,彼の有徳なひととなりがわかると彼を許し,建長寺10世とした。乾元1(1302)年円覚寺7世となる。そののち再び建長寺に帰り,玉雲庵を構えて退居,浄智寺に移る。正和2(13)年後宇多法皇の命により,京都南禅寺3世となった。法皇の崇敬は厚く,一山について参禅工夫を重ねられた。一時病気を理由に隠退を願って許されなかった一山が,越州に逃れたときには,宸書をもって慰撫された。文保1(17)年10月一山は南禅寺で病み,法皇みずからの見舞いを受けたが,まもなく法皇への遺表を奉り,遺偈(ゆいげ)を書き,没した。法皇は,国師号を贈り,塔を亀山廟のそばに建て,法雨の額を賜わった。一山は書画をよくし,儒学や小説などにも通じ,朱子学の普及に貢献した。著書に『一山国師語録』がある。門弟に雪村友梅,無著良縁がおり,虎関師錬, …… (引用元 コトバンク)

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