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同治帝

清朝第10代皇帝[清]

(同治13年12月5日没)

1875年 1月12日 死去享年19歳

同治帝 - ウィキペディアより引用

同治帝(どうちてい)は清の第10代皇帝(在位:1861年 - 1875年)。
諱は載淳。
廟号は穆宗(ぼくそう)。
在世時の元号の同治を取って同治帝と呼ばれる。
生涯 咸豊帝の長子で母は西太后。
晩年の咸豊帝は西太后の権力志向を嫌っていたため一時遠ざけたが、咸豊11年(1861年)に咸豊帝が崩御すると西太后らが辛酉政変で怡親王載垣、鄭親王端華、粛順ら咸豊帝の側近を排除、同治帝は西太后らによって擁立された。
即位当初から継母の東太后、母や叔父の恭親王奕訢による摂政で政治が進められ、在位中を通して実権は母に握られていた(垂簾聴政)。
同治3年(1864年)に14年にわたった太平天国の乱がようやく終結した。
しかし乱を終結させたのは漢人の曽国藩・李鴻章らの個人の軍である湘軍・淮軍である。
それまでの政治の最高機関である軍機処の影は薄くなり、軍隊を背後に持つ者が強い発言権を有するようになった。
つまりそれは、清国の軍閥化が進行してきた証左であると言える。
北西の陝西省・甘粛省ではムスリムが同治元年(1862年)に反乱を起こし(回民蜂起)、同治4年(1865年)にはヤクブ・ベクによって新疆の大半が清から離脱し、清朝領中央アジアの大半を支配するムスリム国家を樹立した(ヤクブ・ベクの乱)。