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徳川忠長(とくがわただなが)

大名、駿府城主[日本]

(寛永10年12月6日没)

1634年 1月5日 死去自刃享年28歳

徳川忠長 - ウィキペディアより引用

徳川 忠長(とくがわ ただなが)は、江戸時代前期の大名。
極位極官が従二位大納言で、領地が主に駿河国だったことから、通称は駿河大納言(するがだいなごん)。
徳川家康の孫にあたる。
生涯 慶長11年(1606年)、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の三男として江戸城西の丸にて生まれる。
幼名は国千代(国松)。
誕生日は5月7日説、6月1日説、12月3日説 など諸説がある。
5月7日は異母弟保科正之の、12月3日は異母兄長丸の誕生日が誤伝したと考えられ、また曲直瀬玄朔の『医学天正記』には6月1日生まれの「大樹若君様」(将軍の若君)への診療記録があることから6月1日説が有力と考えられており、『大日本史料』では諸説を紹介しつつ6月1日生まれとして章立てしている。
乳母として朝倉局(土井利勝妹、朝倉宣正妻)が附けられたという。
父の秀忠や母の江は、病弱で吃音があった兄・竹千代(家光)よりも容姿端麗・才気煥発な国千代(国松)を寵愛していたといい、それらに起因する竹千代擁立派と国千代擁立派による次期将軍の座を巡る争いがあったという。

とくがわただなが [生]慶長11(1606).5.7.江戸[没]寛永10(1633).12.6.高崎江戸時代初期の大名。秀忠の3男。母は浅井氏。幼名は国松。通称は駿河大納言。父母の寵愛を一身に集め,兄家光をさしおいて世子に擬せられたが実現しなかった。元和2(1616)年甲斐に封じられ,寛永2(25)年さらに駿河,遠江を加増されて55万石を領した。翌年8月20日従二位大納言に叙任。同8年5月乱行を理由に甲州へ蟄居を命じられ,翌年には上州高崎へ移され,同10年高崎の大進寺で自刃。 (引用元 コトバンク)