芸能人・経営者のおくやみ情報

土方歳三(ひじかたとしぞう)

新撰組副長、幕臣、蝦夷共和国陸軍奉行並[日本]

(明治2年5月11日没)

1869年 6月20日 死去戦死享年35歳

土方歳三 - ウィキペディアより引用

土方 歳三(ひじかた としぞう)は、幕末期の幕臣、新選組副長。
諱は義豊、雅号は豊玉、家紋は左三つ巴。
新選組時代には、局長・近藤勇の右腕として数々の事件で武名を顕し、また隊内に峻厳な規律を実施して鬼の副長と称され、剣豪揃いの隊士たちに恐れられた。
戊辰戦争では旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、またいわゆる「蝦夷共和国」では軍事治安部門の責任者に任ぜられて軍才を揮った。
明治2年5月11日、戊辰戦争の最後の戦場になった箱館五稜郭防衛戦で、狙撃を受け戦死。
享年35歳。
生涯 多摩・試衛館 天保6年(1835年)5月5日、武蔵国多摩郡石田(いしだ)村(現在の東京都日野市石田)に農家の土方隼人(義諄)と恵津の間に生まれる。
10人兄弟の末っ子であった。
土方家は「お大尽(だいじん)」とよばれる多摩の豪農であったが、父は歳三の生まれる3ヶ月前の2月5日に結核で亡くなっており、母も歳三が6歳のときの天保11年(1840年)に結核で亡くなっている。

(1835年-1869年) 幕末の剣客、新選組副長。享年35歳。 武蔵国多摩郡石田村で、豪農の6人兄弟(最近の調べで10人兄弟ではないかと言われている)末っ子として生まれる。両親が早くに亡くなったため、兄夫婦に育てられた。11歳の頃、呉服屋「松坂屋」に奉公に出されるがうまく行かず、九里(36キロ)の道を歩いて帰ってきたり、17歳で大伝馬町の呉服屋に入ったが、女性問題でまたやめ、石田散薬の行商をしながら25歳で正式に天然理心流に入門した。 文久3年、近藤勇達と共に浪士組に参加し京都へ。のちに会津藩お預かりとして正式に壬生浪士組が結成され、功績を認められて「新選組」の名を拝命する。歳三は、組織編成当初から副長を勤めることとなった。 鳥羽伏見戦で近藤に代わって歳三が指揮をとったが、幕軍はこの戦闘から賊軍とされ、敗戦した新選組も大坂から江戸へ戻る。 江戸へ戻った新選組は甲府城を押さえるため、甲陽鎮撫隊と名を変えて戦いにおもむくが、甲府城はすでに新政府に接収されており大敗。歳三自身は援軍要請のため江戸に下っており、戦闘への参加も叶わなかった。 その後、長年の同志だった永倉新八、原田左之助らとも別れ、近藤と共に下総流山で新選組再起を図ろうとしたが新政府軍に包囲され、近藤は投降、歳三は隊士達を連れて流山を脱出。しかし隊を斎藤一に託し、自身はすぐさま敵の直中ともいえる江戸へ戻り、近藤の助命嘆願に奔走するも、4月11日江戸城開城を迎え、やむなく鴻ノ台に集結した旧幕府軍に合流した。 蝦夷・鷲ノ木浜に上陸した旧幕軍は、大鳥圭介隊と土方隊に分かれ箱館をめざし五稜郭を無 …… (引用元 Hatena Keyword)